月はひっそりと夜に居る。
時折どこかで、月を見ながら吠える犬の声を聞きながら。
太陽が顔を出すその時までの、静かな夜も、賑やかな喧噪も、哀しい時も、楽しいひとときも、世界中から聞こえる音すべてに耳を澄ましながら夜に居る。
月と犬
雨が降る夜だけ店は開く。
雰囲気の良いそのバーはカウンターだけの店で、上質な酒を出す。でも店の開くタイミングが判りにくいこともあり、やって来るのは常連ばかりだった。
「ウォヌや、いつもの」
そう注文するウジが飲むのは水だった。
それなりのグラスにそれなりの氷を入れて水を注いでいるから、それなりな酒に見えるが、ウジは酒が飲めない。
「ウォヌや、いつもの」
ウジの隣りで同じように注文するホシだったけど、飲むのはいつだってウーロン茶で、酒が入ると寝てしまうホシは、仕事中はほとんど飲まない。
「犬っころは？ 今日はいないじゃん」
ウジはカウンターの中にミンギュが見えないと、いつもそう聞く。
カウンターだけだし、客だってそれほど来ないし、1人で十分な店なのにミンギュはいつだっているから。
「急に降り始めた雨だから、店が抜けられないんだろ。どうせ」
ウォヌがそう答えたら、「愛が足りないな」とウジが言い、「なってないな」とホシが言う。
そんなことないとか言いそうな場面だっていうのに、ウォヌはしれっと「ほんとだな」って笑ってた。
店の扉が開く音がして3人が揃ってそちらに向く。驚いたのは、いきなり注目を浴びたジュンだった。
「な、なんだよ、何見てんだよ」
見慣れられてるはずなのに、何故か焦ってる。
こんなに豪華な顔でオーラだって凄いのに、ジュンがただの黒服だなんて勿体無いと言うのは、どの店の店主も一緒だったけど、焦ると変なテンションになることを、周りは知らないからだろう。
「ミンギュが捕まってて、降りてくるのに時間がかかるって、伝令に来た」
でもそんな普通の伝言を、物凄い整った顔と落ち着いた声で言うもんだから、素敵な言葉を言われた気にもなるだろう。そこにいるのがウォヌやウジやホシでなければ.........。
「愛がないな」って伝えといて、ウジがそう言って立ち上がる。
「なってないな」って俺の分もと、ホシもウジに従うように立ち上がる。
「お前の愛ってそんなもんなの？」って、じゃぁ俺もってなんでか乗っかってきたのはウォヌで、それを聞いてウジとホシは「鬼だなお前」って笑ってた。
ミンギュは同じビルのホストクラブに勤めてて、ジュンはそこの黒服で。ウジとホシも同じビルのクラブに勤めてて、そっちは綺麗な夜の蝶がいるような店で、2人も黒服だった。
きっと雨だから店は暇なんだろう。こんな日は誰だって早く帰りたがる。店じまいを引き受けた代わりに、こんな時間に休憩を貰えたのか、半時間ほど2人はウォヌの店で休んで行った。
ちょうどウジとホシが店から出るために扉を開けた時、たまたま外を通りかかった酔客が店の中を覗き込んでいた。
雰囲気だけは良いから、気紛れでも店の中に入ってくれそうだったっていうのに。
「お兄さん気をつけて。ここゲイバーだから」とウジが言い、「しかもハプニングバーでもあるから危険度高いよ」とホシが畳み掛けていた。
「ヤーッ！」
ウォヌが店の中で叫んでいたけれど、扉は無情にも閉められた。たぶんあの酔客はウジとホシに転がされて、2人の店に連れて行かれるんだろう。
「え？ ハプニングバーだったっけ？ ここ」
何故かジュンが知らなかったって顔で驚いていたけれど、「ゲイバーの方には何も言わないのかよ」とウォヌにツッコまれていた。
「何言ってんだよ。たまにミンギュと抱き合ってるじゃん」
まぁそう言われて、黙ったのはウォヌだったけど.........。
The END
月と犬2
ミンギュはアフターなんて絶対引き受けない。
面倒だし、店が終わればウォヌのもとに直行したいから。
だから指名してくれるお客さんにも、無理にお金を使う必要はないと、ホストにしては珍しいことを言う。でも逆にそれがミンギュをより人気者にしたのかもしれない。
縋り付いてこられれば、きっとしっかりと拒否していただろう。
でも遊び上手なのかわきまえてるのか、それともミンギュの側にいるためにその距離感を学んだのか、誰もミンギュが自由に動くのを邪魔したりはしない。
「一番じゃなくていいから」って、誰もが言うから。
ただ一人、「俺、お前の一番以外は嫌だけど」って笑う男以外は。
「出会えたことが、運命みたい」って、可愛く照れたように言ってくれる人も多いのに。
ただ一人、本当にただ一人だと思う人をミンギュはもう見つけてしまっていたから。
「あ。ヤバイ」
出会った時にウォヌが言った言葉は、たったそれだけだった。
でもミンギュも同じことを思ってた。
それは2人同時に、出会っちゃったって気づいた瞬間だったから。
「俺は酔ってたけどな」
ってウォヌはその後、何度もそう言ってたけど、酔ったウォヌなんて見たことがない。
雨の日だけ開く店の存在は前から知っていたけど、そこにウォヌがいることは知らなかった。
知ってからは雨が降れば店を早上がりして、勝手に手伝いに入る。
客なんてほとんど来ないけど、そんな時はカウンターの中でウォヌに手を伸ばす。
「脱がしたい」とか、「触りたい」とか、「愛し合いたい」とか、「キスしたい」とか。呟くように口にした全てにウォヌは「いいよ」と答える。
揶揄ってるのかミンギュにはそこまでの度胸がないとでも思っているのか。
一度だけ本気で「嘘じゃないよ」って言いながら手を出し続けたら、結構なところまで進んでしまった。だからウォヌも本気で「いいよ」って答えてるんだと知ってしまった。
突然のゲリラ豪雨でもない限り、ウォヌは雨が判るらいい。気圧に影響されるのか片頭痛がするとか。だから雨の日だけ店を開けるんだって、嘘かホントか、知り合ったばかりの頃に言っていた。
だからミンギュは自分のスマホに雨雲レーダー系のアプリを3つも入れて、雨の状況を限りなく正確に把握するようになった。
あぁそれでもどうしても抜けられないのは、自分目当てに店に来てる子が誕生日だったりした時で、何も特別なこともしてあげられないし、本気の気持ちだって差し出せないってのに、それでもいいと言ってくれる時。
「ジュニヒョンごめん」
氷やグラスの追加をさりげなく持ってきてくれるムンジュニにそう囁けば、頷いたジュンが店の奥へと消えてった。多分裏口から抜けてウォヌの店へと足を運んで、「ミンギュが捕まってるからちょっとだけ遅れる」と、伝えてくれるはず。
でも結構すぐに戻って来たジュンが、「お前の愛ってそんなもんなの？」ってウォヌのモノマネをしながらそう言ったけど............。
月と犬3
雨が降ると客足は悪くなる。売り上げもあがらなけりゃ、早く帰りたくなるのが普通なのかもしれない。
それは夜の蝶をしてる綺麗な姉さんたちもそうなら、店の裏方を取り仕切る黒服たちだって一緒で、そんな時はいつだってウジが店の〆処理をするという。
お金の計算から後片付けから店の掃除、普通ならそれで終わりなのに、調度いいとばかりにディスプレイの変更にも手をつける。その他諸々の雑用もすべてひっくるめてウジはテキパキと段取りをつけるからか、任される仕事は多かった。
「お前のこと、絶対下っ端だと思ってると思うけど」
夜の店だから、人の出入りは激しい。一番小さくて、一番働く。だからイコール下っ端だと勘違いするのか、あれもこれもやっといてと仕事をウジに押し付けてくる奴は多かった。下っ端に店の金を任せたりはしないと、なんで気づかないのかってホシにしてみれば不思議だったけど。
「いいんじゃね？ 侮られた方がやりやすいし」
ウジはそう言って大抵のことは気にしない。
長く店にいる姉さんたちは、決してウジのことを侮ったりはしないけど、なんでか小柄なウジのことを姉さんたちが面白おかしく可愛がっているだけ......と見る人間がいる。
やっぱりホシにしてみれば不思議だった。
雨が降る。だから今日もウジは仕事の大方を引き受ける。店を閉める作業は一番最後まで働くことだから、誰もが喜ぶ。その代わりとばかりに早めの休憩時間を貰って、ウォヌの店に行く。
酒を飲む訳でもないのに酒しか置いてない店に行く。
ちょっとだけ飲みながら休憩してるんだろうって、誰もが信じてるけど、そんな訳ない。ウジは一滴だって飲まないのに。
ホシだけがウジについていく。ホシだけがウジと残ってる。ホシだけがウジしか知らないってことを、知っている。
「ウジや。酒が足りない」
支配人がそうウジに声をかける。
誰もがそれを、酒を追加で発注しとけっていうウジへの指示だと思ってるけど、元から酒の発注はウジがしてるし、在庫管理だってしてるのに、今さら酒の在庫の話なんてするはずがない。
「時々出るよな。酒をくすねる奴」
ホシがウジだけに聞こえる声で言えば、「黙ってろよ。泳がせてるところなんだから」とウジも小声で答える。
ホシは知っている。何かあった時に「証拠があるのかよ」って言い逃れできないように、ウジは証拠も完璧に抑えるタイプだってことを。そしてそれを楽しんでもいることを。
月と犬4
雨が降っても、ホストクラブは忙しい。
店を早くあがった夜の蝶のお嬢さん方がやって来たりするから。
夜を知る人たちには、ジュンは無表情で接するけれど、夜の街を知らない素人な人たちには、ジュンは優しく笑って見せる。
ホストに入れ込んだって、ロクなことはない。そんなこと誰だって判ってる。でも夢を見たいんだろう。その対価は決して安くはないっていうのに。
別にホストが嫌いってこともないし、ホストに通い詰める客が嫌いってこともない。でもなんだか幻みたいな世界ではある。そう言えばウォヌはいつでも、「お前の見た目がすでに幻だわ」と酷いことを言うけど。
確かに働き始めた時も、それ以降も、ジュンが黒服だと知ると誰もが驚くし、時々は本気で口説かれる。それは他店自店問わずの店側の人間からも、お客様からも。
夜の蝶のお嬢さん方は、目当てのホストが他の客についてる間には、ジュンに酒を持ってくるようにと頼んでくる。
誘われても隣りにすら座らないっていうのに、フロアに膝をついて酒を作る間だけなのに、それでもいいと言う人は多かった。
「まぁジュニは、平等に不平等だからな。そういう意味では安心感はあるんだろ」
ウォヌはなんでも判ってるって顔でそういうけれど、ジュンには良く判らない。自分の顔が良すぎることは理解してても、自分の顔を見て今更衝撃を受けることもないからかもしれない。
「ジュニヒョンごめん」
客が引かずに、無碍にもできずに、ミンギュが小声でそう伝えてくる。外は雨が降っているからだろう。
ジュンは店を抜けてウォヌのもとに向かう。そこは雨の日にしか開かない店で、大抵ウジとホシとよく顔をあわせる。2人とも酒なんて飲まないくせに。
仕事があるからと、ミンギュが遅れることを伝えたらすぐに戻るつもりだったのに、一杯付き合えとウォヌがジュンのために差し出したのは、なんでかメロンソーダだった。店の雰囲気にもジュンの雰囲気にも、全くあってないけど、ちゃんとチェリーまでつけてくれたそれは美味しかった。
「アイスは？」
どうせならクリームソーダがいいとばかりにそう聞けば、「ミンギュが来たら買いに行かせる予定」とウォヌが言う。
当然のようにパシらせようと思ってるのが面白くて、「じゃぁ仕事終わりにまた寄ろうかな」とジュンは言った。
雨が降り続ければ、きっと店は早く終わるはず。そうすれば店の掃除だっていつもよりも早く終わって、ジュンだって少しぐらいはゆっくりする時間が取れるはずだから。
月と犬5
滅多に客は来ない。まぁ普段は開いてないから、それもしょうがない。それに別に、賑わいのある店にしようとも思ってない。
カウンターの中にいるのが好きだし、雨が降ると気圧の関係なのか昔から偏頭痛がはじまる。それを少しでも忘れたくて、雨の日だけ店を開けることにしただけだったから。
そんなウォヌの事情を知ってるのは、たぶんジュンとホシとウジぐらいで、盲目的に愛してるとか口にする男は、案外知らないかもしれない。
もっと深い意味があると思っているか、くだらない理由だとでも思っているか。
「ごめん。なかなか抜けれなくて」
そう言ってミンギュが店に来る頃には、雨も大分小降りになっていた。
どうせ客が来るでもないから慌てなくていい。いつだってそう言うのに、ミンギュはいつだって駆けてくる。
「もう小雨？」
「うん、そろそろやみそう」
「じゃぁ悪いけど、アイス買ってきて。でっかいの」
「アイス？ いいけど他には？」
「お前が食べたいものも、買ってきていいけど」
腹が減ってるなら飯だって買えばいいと言いながらカードを差し出せば、「食いたいのはウォヌだけだよ」と言って勝手に人の口を舐めてったミンギュは、「傘」って言ったのに、「走るから大丈夫」と雨の中を駆けていった。
まぁ、雨に濡れてもいい男だから、問題はないけど。バカは風邪をひかないとも言うし。
きっとそれに、思った以上に早くミンギュは戻ってくるだろう。いつだってウォヌのもとに来る時には、飼い主を見つけた時みたいな犬のように嬉しそうに駆けてくるから。尻尾がバッサバッサと振られてるのが、本当に見えるようでその姿を思い出すだけでも笑える。
「俺、猫派なんだけどな」
ウォヌの呟きは誰にも聞かれなかった。でも雨があがりはじめて雲が流れて、月だけがそれを聞いていたかもしれない。
5分もかからずに戻って来たミンギュは、「ラッキー、もうほとんどあがってた。俺もしかしなくても、晴れ男かも」と笑ってたけど、「それなら俺とあんまり会えないじゃん」とウォヌに言われて、途端に尻尾をさげていた。
その姿に「ハハハハハハ」と、ウォヌが声をあげて笑う。
月と犬6
雨が降った時だけしか会えない訳じゃない。
でも雨が降れば確実に会えて、しかも同じ場所で同じ時間が過ごせる。
だからミンギュはその時間が好きだったし、その気持ちも態度も言葉も何もかも惜しみなく差し出して、隠しもしてない。
それをウォヌは「やっぱりお前、犬みたいだよな」って言って笑う。
ウォヌが笑ってくれるなら、犬だってなんだって構わない。そう言えば、「俺は俺だけの犬が好きだけどな」とか言ってくる。
ちょっと傲慢なことを言う。普通なら「は？」ってなるのかもしれないけれど、「じゃぁ何も問題ないじゃん。俺はウォヌだけの犬でいいよ」とミンギュは当然のように答えてしまう。
好きだからだと思う。ただ好きだから。
なんでもいいんだと思う。ただ一緒にいれるなら。
そんなミンギュに抱かれながら、時々ウォヌは「この関係、俺の方が損じゃない？」とか言ってくる。
やっぱりちょっと傲慢なことを言う。
そんな時のウォヌはちょっとだけ意地悪そうに笑ってることもある。
でもそんなウォヌだって好きなんだから。
「俺、待てもちゃんとできるよ」
そう言えばウォヌは笑って、「いやお前、待てって言ったって待ったことないって」って言うけれど。思い当たることがあり過ぎて、「そうかなぁ」って惚けておく。
月と犬７
時々客は飛ぶ。夜の仕事だから、そんなこともある。
馴染みの客が一人飛んだぐらいじゃ、普通なら痛手なんてない。
夜の商売だからって、店は夜の蝶のお姉さんたちに、売掛を持たせるようなことはしてなかったから。店として許してるのはどの客にもたった一度だけ、支払いを待つだけだった。だからトラブルがあっても被害はそのたった一度だけに限られる。はずだった。
「ごめんなさい」
固い表情で謝ったのは、まだ入って2か月ぐらいの、でも別の店から移ってきたからと最初から頑張っていた夜の蝶の1人で、良い意味でも悪い意味でも店の雰囲気を変えていた嬢ではあったかもしれない。
「うちが売掛を持たせてないのは知ってたらしいんだけど」
古くからいる別の蝶が申し訳なさそうに言う。
昨日までは、10000ウォンだろうと最後の〆作業でズレることはなかった。
だけど今日になって、まだまだ夜はこれからって時に釣銭が切れた。そんなことは滅多にないから、釣銭を全部出し忘れたんじゃないかって裏で話す誰かの声を聞いて、ウジが動いた。スマホやクレジット払いが多いから、釣銭なんて日頃からそれほどなくて、だからこそ間違いは起こりにくいってのに。
「ホシや。従業員が全員揃ってるか、休みの奴も含めて確認しろ」って。
残念ながら、ベテランまではいかないけれど、裏方の中堅どころの男が一人、連絡がつかなかった。
店を閉めて全員から話をきけば、すぐに事情はそうとしれた。
前の店からの客を連れ込んだ時に盛大にシャンパンを開けてくれたらしいが、クレジットが全て使えずに支払えなかったことがあったらしい。そんな時、入ったばかりなのに面子を潰す訳にはいかないと、こっそりその黒服が立て替えてくれたという。
すぐに客の男も払ってくれて、その時は問題なかったけれど、そんなことがコッソリと何度か続いたらしい。
無表情だったけどウジは不機嫌だった。
それにホシだけは気づいた。
ふと気づけば外は雨だった。
月と犬８
「ふ～ん。でもそれって、優しさの結果じゃん」
カウンターの中にはウォヌとミンギュが。
そしてカウンターではウジとホシとジュンが。
その日にあった出来事をホシが話せば、ジュンはうへぇって顔をしたのに、ミンギュはそれを優しさの結果だと言う。
黒服の1人が新しい女の子を気づかって、トラブルをカバーしようとして自分のお金でレジに補填までして。
「でも昔からある手ではあるよね。いつも優しくしてくれて自分を助けてくれる相手が困っていたら、今度は自分が助けてあげたいって思うのは、普通の人なら当然だし」
今日はほかでもトラブルがあったから、400万ウォンほど急に足りなくなってしまったと言われて、ブランド品をカードで買って、それをすぐに手放してお金に換えて渡したらしい。すぐに返すからって言葉を信じて。
当然レジに入れておいた見せ金だって回収したはず。
「でも、それってやっぱり優しさなんじゃないかなぁ？ どうにもならなくなって飛んだだけじゃないの？」
ミンギュは諦め悪くそう言う。
もちろん、そう言いたくなる気持ちも判ってる。だって計画的にしては額が少なすぎたから。少しずつちょろまかしてた酒だって、トータルしてもそれほどの額じゃない。
でも......。
「この世界、舐められたら終わりだろ」
グラスを傾けながら、無表情にウジが言う。まぁそのグラスの中身はコーラだったけど。
ミンギュが不思議そうな顔で、「ウジヒョン、もしかして怒ってるの？」と言う。
無表情だから日頃から不機嫌に思われることは多いけど、ウジは決して怒ったりしないし、不機嫌になることも滅多にない。当たりが強いのなんてホシ相手の時ぐらいだってのに。
珍しい珍しいとミンギュが面白そうに笑っていたけれど、付き合いの長いウォヌもジュンもホシも密かに参ったと、それぞれが思っていた。
ウジは自分のテリトリーを乱されるのを嫌うから。
ウジは絶対にやられたままではいないから。
ウジは目に物見せてくれるわって本気で言う時があるから。
ウォヌとジュンとホシがそれぞれそんなことを考えてる間にも、ミンギュが「まぁでも、起きちゃったことはしょうがないじゃん」とか言って、ウジの気持ちを逆撫でしてた.........。
月と犬9
ジュンが仕事を終えた時、店の外には見知らぬ人がいた。
真夜中と朝のちょうど中間ぐらいの時間で、「店には来ちゃいけないと言われてたけど」と言い訳じみたことを口にしたその女性は、「キムミンギュが出勤してきてるかだけ知りたい」と言った。
会いたいでもなくて、「元気ならいいんです」と謎なことばかり言うその人に、ジュンは平然と「キムミンギュ？ 俺に何か？」と口にした。
「この店にはキムミンギュは俺しかいない」
自分の整いすぎた顔が、強過ぎる美しさが、言い方一つで物凄い攻撃力を兼ね備えてることを知っているから。
「え？ あの、え？ でも」
「あんたなんか知らない」
それ以上問いかけもせず店のドアを閉めようとすれば、不幸そうなはずの女が意外にも力強くそのドアを押さえてきた。
「た、多分私騙されたんです。キムミンギュって名乗ってた人に。お金も貸してたし、そ、それ以外にも色々」
きっと本物のキムミンギュなら、絶対に「どういうこと？」って口にしたはず。少なからず事情を知ろうとはしただろう。でもそこにいたのはジュンで、「じゃぁ警察に行きなよ」とにべもない。
「でもそれじゃぁこのお店にも迷惑がかかるかも」
「俺にはかからない」
本当なら黒服姿なのだから、ホストじゃないとバレそうなものなのに、その美しすぎる姿に騙されたのかもしれない。
女は肩を落として帰って行った。ように見えたけれど、店ももう閉まってて、この時間に来たって普通ならホストたちだっていない時間なはずなのに。
「うへぇ」
自分までもが巻き込まれるのか.........と、ジュンは思わず変な声を出していた。
月と犬10
何かあったら、お前は逃げろ。
物凄いドラマチックなことを言ったのはウォヌだった。
それに対してミンギュは「わかった」と物凄いキッパリと答えた。
雨が降っていた。だからそこはウォヌの店の中で、客はいなかった。でもちょうど店の扉を開けたホシがそれを聞いていた。
何があるのか。何から逃げるのか。
理解はしてなかったけれど、「なに？ なに？ なに？ 俺は？ 俺も逃げる？」と物凄い1人で五月蝿かった。
そしてウォヌの手に丸めた雑誌を見つけて、ホシは本当に逃げてった。ミンギュはウォヌの後ろに構えて、何かあれば俺が出るみたいな風情でいたけれど、実際にはウォヌのことを盾にしていたし、何かあればウォヌが助けてくれると信じて疑ってないようだった。
「あ、いた」
ウォヌがそう呟いた瞬間には、我慢の限界だったのかミンギュも逃げ出して行ったけど。
普段から害虫駆除の薬を撒いているからか、素早く動くこともなくて、ウォヌは淡々と処理をした。客はあまり来ないけどそれでも飲食業だから、どうしたってついて回ることなのに、なんでかミンギュはてんで役立たずだった。
でもなんでもできるミンギュのダメな部分を、ウォヌは結構本気で可愛いと思ってたから、ウォヌのことを捨て置いて逃げていったその姿を見ても怒りは当然のことながら、呆れたりもしなかった。
でも雨が降っているのに、その日はもうミンギュは戻ってこなかったけど。
月と犬11
ウォヌの店を珍しく1人で訪れたのはウジで、「ホシは？」とウォヌが聞けば、「俺はもうあの店には行かないって言ってた」とウジが笑ってた。
ジントニックみたいに見えるものをウォヌはウジの前にスッと差し出したけど、中身はスプライトだった。でもそれを、ウジはちょっとだけカッコつけて飲む。
「ジュニのはなし聞いた？」
ウォヌが言うのに、ウジは頷く。
「目をつけるなら、黒服なのにキラキラすぎるジュニだと思ったのにな」
「アイツを疑似餌にするには目立ちすぎるだろ」
自分の予想と外れたことがムカつくのか、ウジがやっぱり酒みたいな感じで、でもただのスプライトをグイッと飲む。
「いいのかよ。よりによって、キムミンギュが巻き込まれても」
「別にいいだろ。アイツはアイツで目立つからな」
「面倒になるぞ」
「いざとなれば切り捨てればいい」
「できるのかよ」
「できるだろ」
ウジが珍しく、ウォヌのことをじっと見てくる。
「できるっていうなら、早くしてやれよ。泣いてどうにかなるうちにな。まぁ、どっちが泣くかは知らないけどな」
捨て台詞ような言葉を残してウジが店を出て行く。
残されたウォヌは笑ってた。「俺が泣くかもな」って独り言は、雨があがりかけて顔を出しはじめた月ぐらいしか聞いていなかったはずなのに、「ウォヌヒョン、俺たち、別れよう」って言って来たのはミンギュからだった。
雨が降っていた日。ウォヌはミンギュがいつものようにやって来るのを待っていたっていうのに。
月と犬12
変だなと思ったのは「キムミンギュに騙された」と言ってる客がいると人伝に聞いた時。
「なにそれ」と笑ったミンギュだったけど、確かにそういう人はいて、会ってみれば「私のキムミンギュはあなたじゃない」と言ってくれて多少はホッとしたものの、それならミンギュの名前を騙ってるのは誰だってことになった。
良くある名前でもあるし、見た目が派手だから目印にされやすいんだろう。その程度に考えていたのに、「金を貸した」だとか「大切なものを盗まれた」だとか、果ては「子どもができた」って人まであらわれるとあっては、気持ちも穏やかじゃなかった。
それでもまだ気にしてなかったのに、妹が騙されたという男までやって来た。それじゃぁ本人じゃないから相手が違ってることには気づけない。
その時にはたまたまジュンがいて、「写メでも撮って、相手が本当にコイツか聞いてみろよ。人を騙すような奴は最初から自分の名前なんて名乗らないぞ」と言ってくれたから助かった。
でもとうとう、「キムミンギュとは一度も会ったことがない」っていう人が現れた。オンライン上でしかやりとりしたことがないって言ったのはまだ子どもだった。
そうなってしまえば、ミンギュとしてできることはちゃんと警察に被害届を出す以外なくて、「お前、誰かに恨まれるようなことしたのかよ」と回りからは言われ出した。
その見た目で、軽くあしらって傷つけた相手がいたんだろうとか、お前はうっかりで人の好意を踏んで歩きそうだからなと笑って言われたこともある。
誰かが言った。店にもそのうち、迷惑がかかるだろって。
浮かんだのはウォヌのことだけだった。
迷惑が、かかるだろうか。
雨が降っていた日。誰かが投げた傘がミンギュのことを掠めて行った。危ないだろと誰かが叫んでくれたけど、パタパタと逃げていくその姿はまだ子どもに見えた。
あぁでも、どこかで恨みを買ってるのかもしれない。
投げつけられた傘は、いつか側にいるウォヌに当たるかもしれない。
「ウォヌヒョン、俺たち、別れよう」
離れるなんて無理だって判ってたけど、そう口にしていた。言った側から後悔したけど。自分がそう言ったのに、「無理無理無理無理」って速攻否定しそうになった。
でもウォヌは、「俺たち付き合ってたっけ？」って言ったけど............。
月と犬13
お前、犬を捨てたって？
そう言ってきたウジに「捨てられたのはこっちだけど」と笑って言ったのに、「鬱陶しいことになってんぞ」と言われた。
どうやらミンギュは、派手に暮らしてるらしい。それこそ一流のホストなのかもしれない。
珍しくシャンパンタワーを喜んで、アフターなんてほとんどしたことがないのに、それが叶うとあってはドンペリでもなんでも、競うようにして開けられていく。
もう少しで、月の過去最高額を塗り替えそうだとジュンも言っていた。
「あんなに働くなら、クリスマスとバレンタイン前は、ウォヌがすげなく扱えばいいんじゃん」
なんでかホシはそう言って、「俺らのボーナス代ぐらい、稼いで貰おうぜ」と笑ってた。
でもミンギュは決してヤケになってる訳じゃない。盛大に遊んでるように見えて、遊び方が判ってる相手としかアフターもしてないし、逆に言えば今までのようにウォヌのところに潜り込んでくるよりも、しっかりとしたアリバイができていた。
それはウジも判っていたんだろう。
どうやったって、帰ってくる犬とかいるもんなと笑ってた。
あれは誰の犬だ？ ってそう聞かれたら、きっと今でも俺のだと言うだろう。
もしも他の人間が首輪をつけたって、それは変わらない。
そう思ってるのに、ウォヌは何も言わなかったし動かなかった。
それはまるで月みたいに、ただ見てるだけだった。
目に見えてミンギュへのちょっかいは減った。ミンギュが上手く動いているからなのか、ウォヌから離れたからなのかは微妙なところだったけれど、きっと結果は変わらない。
犬だけは守るよ。そうウジは言った。
雨も降ってないのにウォヌのところにやって来て、犬だけは守るよって。
それ以外は諦めろってことなんだろう。ウォヌは笑って、「上出来」とだけ答えた。
月と犬14
今日もミンギュは酒を楽しく飲んで、綺麗なお姉さんたちと遊んでる。それが仕事なんだから当然だけど、外はさっきから雨が降り始めたのか、新しく来た客は傘を持っていた。
思わず立ち上がりそうになる。「今日はここまで」っていつものように、ウォヌのもとに向かいそうになる。
でも「お前ちょっとウォヌから離れてみろよ」とミンギュに言って来たのはウジだった。
咄嗟に口にした別れにウォヌは「俺たち付き合ってたっけ？」とか言ってミンギュを撃沈させたけど。それでもミンギュは次の雨の日にはいつも通りにウォヌのもとに向かうつもりでいた。別に付き合ってなくてもいい。側にいれさえすればいい。そう言って、ウォヌのことを抱きしめるつもりでいたのに。
ウジが真面目な顔して、「そうすればお前が目当てなのか、ウォヌが目当てなのか、それ以外なのか、少しは見えるんじゃね」とか言うもんだから、本当にそうか実践してみることにしたら、ミンギュへの嫌がらせは驚くほどになくなった。
「俺、ウォヌヒョンの近くにいたから、嫌がらせされてたの？」
そう聞けば、「どうなんだろうな。ウォヌへの嫌がらせかもな」とウジは笑ってた。自分に嫌がらせをすることが、ウォヌへの嫌がらせになるかは判らない。でも離れれば無くなる嫌がらせなら、一生嫌がらせが続いたって構わない。
ミンギュがそう思って、次の雨の日を楽しみに待っていたというのに、次にそんなミンギュを止めたのはジュンだった。
「たぶんもう少しで終わるから、もう少し、待ってみて」
そう言ってきたから。
何が終わるのかも判らない。それにもう嫌がらせが続いたっていいとも思ってたし、ジュンの言うもう少しですら耐えられそうになくて、雨乞いすらしてしまいそうだというのに。
でもジュンが「そうすれば、ウォヌに嫌がらせをしてた相手がきっと判るよ」と言うから。
自分への嫌がらせなら気にしなくても、ウォヌへの嫌がらせならそれは許せないかもしれない。
だからミンギュは雨が降ってきたっていうのに、立ち上がるのを我慢した。でももう少しってどれぐらいなんだろうって思いながら。
月と犬15
だいたい。ってウジが言った時、ホシは話を適当に聞いていた。
最近ウジは機嫌が悪い。それは自分の周りがゴタついているからで、自分のテリトリーを荒らされたと思ってるから。
別に自分たちの懐が痛む訳でもないんだから、酒なんて盗まれたって気にしなきゃいい。別にそれで潰れるような店でもない。
ミンギュに対する嫌がらせだって、あんだけ見た目が良けりゃそれぐらい差し引きゼロだろう。
それにいつだかウジだって、ミンギュの身長がまた伸びたって時に呪いの言葉を吐いていたはず。
だいたい。ってウジがまた言う。それはまるで顔の前をチラチラと飛ぶ小さい虫ぐらいウザイらしい。
確かにそれはウザイ。
でもホシはその時気づかなきゃいけなかったのに、気づけなかった。ウジが犯人に目星をつけてるからこそ、雑魚な相手をウザがっているんだってことに。
だいたい。ウジがまた言う。
「何がだいたいだよ。全然だいたいじゃねぇだろッ。こんなことになるなら、それこそ最初から言っとけよッ」
ホシがそう叫ぶはめになったのは、ウジが3度目のだいたいを口にしてから数時間後のことだった。
お客さんが普通に入ってるのに、店を貸し切りたいとか謎なことを言って来た男は、「いずれこの店は俺のものになるんだから、言うことは聞いておいた方がいいぞ」と口にした。
それに対してウジは当然のように、「じゃぁそれは、オーナーになってから仰ってください」と断っていた。
どこかで見たことがある。でもすぐには思い出せなかった。
後ろに数人以上の人間を引き連れてきていて、引けなかったのかもしれない。「黒服風情が」って男は言った。「黒服風情ですが、責任者です」って、珍しくもウジがそう名乗った。
いつだってトラブルがあれば店の女の子を下げるのが第一にすることで、ホシはその日だってそうした。
でも、そんなこと、してる場合じゃなかたったのに。
月と犬16
雨も降ってないのに店のドアが開く。
珍しいとウォヌが顔をあげてみれば、無表情のジュンがいた。
「ウジが刺された。もうすぐ救急車が来る。警察も来る。ちなみにウジはホシを抑えるのに必死で、そっちのせいで出血量がヤバいことになってる」
そこにはたくさんの耳目があって、だから「ぶっ殺してやる」と言った男が、自分の持ってるナイフでウジを刺したのは誰もが見ていた。
すぐに男は取り押さえられたし、本当ならすぐに警察や救急車が呼ばれてって感じになるはずが、ウジが刺された瞬間にホシが切れた。
たぶん小さく「ころしてやる......」って呟いた声はウジにしか聞こえなかっただろう。でもウジが咄嗟にホシにしがみ付かなきゃ、確実にホシは相手を仕留めていたかもしれない。それぐらい物凄い殺気と勢いと暴れっぷりで、大変だったらしいから。
「ミンギュは？」
ウジが刺されたと聞いたはずなのに、ウォヌが口にしたのはミンギュのことだった。
ジュンはちょっとだけ呆れた顔をして、「無事にきまってる。俺がついてんだから」と言って、珍しくもドヤ顔で笑ってみせた。
「俺が出ようか？」
そう言ったウォヌに、「別に必要ないだろ。お前が出るほどのことでもない」とジュンは言う。ウジが刺されたってのに。
だからウォヌは店から出なかった。
雨も降ってないのに、次に店にやって来たのはミンギュで、「事件のこと聞いた。俺、そばにいていい？」と言った。
頷けばその長い脚をつかって、軽々とカウンターを乗り込えてウォヌの横に立つ。そしてウォヌのことを抱きしめてきた。
ミンギュは何も知らないはずなのに、いつもと違うってだけで、ウォヌのことを心配してくれたのかもしれない。それとも、突然起きた出来事に、自分だっていつ何時そうなるとも限らないから、やっぱりウォヌの側にいようと思ってくれただけなのかも。
「やっぱり俺、ウォヌヒョンのそばにいたいよ」
ウォヌがどうしたって聞く前に、ミンギュが言う。
「うん」
だからウォヌはそれだけ答えた。それからミンギュの背中に手を回す。
月と犬17
誰に殺されかけたかというと、ホシにだろう。
救急車の中で意識を失いかけたウジは、警察相手に正直に話すかちょっとだけ悩んだ。でもジュンだって、ウジのことを知ってる面子だって、上手く立ち回るだろう。
わざわざウジが相手をそれとなく挑発して、「ぶっ殺してやる」って発言の後に刺されたことだって理解してるはず。
唯一の誤算は、本当にホシだけだった。
今もウジの血を浴びて真っ赤になったシャツを着たまま、ウジの手を握り続けてる。
最初はウジの方が抱き着いて離れなかった。本当に誰かを殺しに行きかねなくて。
落ち着いた後は今度はホシがウジに抱き着いて離れなかった。救急車が来てウジを担架に乗せようって時に、ジュンに無理やり引き剝がされるまでずっと。
その出血量の多さと凶器は釣り合わなかったけど、とりあえずは誤魔化されてくれと願う。
殺人未遂では初犯だろうが、日頃の行いで軽微な罪が溜まってることも一緒に願う。
万が一にもホシまでもが捕まることになれば、それこそ一生後悔する目にあわせてやるとか、そんなことまで考えてる間に、処置室に運ばれたウジは意識を失った。
起きたら全てが終わってた......…なんてことは当然なくて、警察が事情を聞きたいと病室の外で待っていた。でもウジの側から離れなかったホシと先に話せたことは幸いだった。
「何がだいたいだよ。全然だいたいじゃねぇだろッ。こんなことになるなら、それこそ最初から言っとけよッ」
珍しくホシが怒ってた。ウジが「多少のことは織り込み済みで、だいたい事は上手くいってたのに、お前が全部ぶち壊すとこだっただろ」と言ったから。
きっとあらかたのことは判ってて動いてたと言ったらホシはもっと怒るだろう。
犯人だって結構最初の方から判ってた。
だいたいがして、本気で店に迷惑をかけようと思ったら、食中毒でも出せば飲食やってる店なんてすぐに休業の指導が入るんだから、でっちあげるのもそっちの方が簡単だろうし。なのに地味な嫌がらせだけで、店自体には被害が少なかったのは、結局店の価値はそのままに店を手に入れたいと思っていたからだろう。
ミンギュにまで被害が出るってことは、ウォヌをちゃんと攻撃しようとしてる証拠で。
でも、ほとんどの人間が、店のオーナーがウォヌだとか、あのビルの持ち主自体がウォヌだとか、知りもしないっていうのに............。
珍しくホシが怒ってた。ウジに対しても。
身体張り過ぎだって。「でも俺、お前に殺されかけたようなもんなんだけど」って言ったらやっぱり睨まれた。
月と犬18
雨が降っていた。
ミンギュはいつも通りにウォヌのもとに向かう。
何があったのか、正直判らないまま。ただウジは入院して、ホシはそれに付き添って、2人のいる店はそれなりに大変なのかと思ったら、そうでもなかった。
いつもはミンギュの店にいるジュンが、普通にヘルプに入ってた。
同じビルの中だし、もともとチングだし、そんなもんなんだと納得してたら、その呑気さを笑われた。
だからウォヌの前で少しだけ拗ねた顔を見せたけど、「デカイ図体で拗ねられてもな」とやっぱり笑われただけだった。
「ねぇ、寂しかった？」
ミンギュがそう聞けば、あっさりと「別に」って言うくせに。
雨がしばらく続くらしいとも言う。ちょっとだけ嬉しそうな顔で。
「俺は寂しかった」
ミンギュがそう言えば、ウォヌはやっぱりあっさりと「知ってる」とか言う。
「ウォヌヒョン」って言いながらミンギュが手を伸ばせば、ウォヌはその手を振り払うこともなく受け入れる。
久しぶりにその身体のカタチとか感触とかをミンギュが味わおうとした時、店の扉が開かれた。
「俺、店２つ分の雑用こなし中だけど、ちょっと休憩。続けてくれても構わないけど、水は出せ」
珍しく不機嫌そうなジュンは、本当に忙しいのかちょっとヨレていた。
ウォヌがミネラルウォーターを瓶まま差し出せば、ジュンは自分の胸ポケットからとりだした飾りナイフで起用に蓋を飛ばして見せて、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲む。本当に疲れてるのか、そのままカウンターにパタリと突っ伏して、「10分後に起こして」と言って動かなくなった。
「10分なんてあっという間だ」ミンギュが言えば。
「でも案外長いけど」ウォヌも言う。
「さすがに10分じゃ無理だよ」ミンギュが言えば。
「まぁ確かに。でも黙って20分後に起こせばいい」ウォヌも言う。
「さすがウォヌヒョン」とミンギュが言った時点で、寝てるはずのジュンがカウンターを拳で叩いたけど......。
月と犬19
ウォヌとミンギュは、何事もなかったかのように、幸せそうにイチャイチャしていた。
ジュンはあほほど忙しくて、僅かな休憩の間に睡眠を取ろうとしてるっていうのに。
ミンギュはジュンがただ2つの店を掛け持ちしてると思ってるだろうが、ウジの抜けた穴は案外大きくて、しかも後始末も任せていったから、店がしまってる間の、普段なら休んでる時間外だってジュンは働いていた。
ミンギュは知らなくても、ウォヌは報告を受けてるんだから知ってるはずなのに、何をイチャイチャしてるんだか。
結局犯人は、ウォヌの遠縁に当たる男だった。ウォヌは見たことないとか言っていたけど、実弟の彼女だって顔を覚えてやろうともしないような男だから、きっと覚える気はないんだろう。
ウォヌが失態を犯せば、店の権利が自分の手に入ると何故考えたのかは謎だけど、欲に目が眩んだ人間はそうなのかもしれない。
ここはウォヌの曽祖父がウォヌに、生前分与でくれた資産のうちの１つだった。他にも選択肢はあり、従兄弟や兄弟たちは皆好きなものを選んだらしい。ウォヌは当時から人にもモノにも興味なんてなかったのか、余ったものからそこを選んだ。
何もせずに金が入る物件ではなかったんだろう。まぁそれでも売りに出してしまえばそれなりな額にはなっただろうが。
店の経営なんて、するつもりもなかったかもしれないのに、たまたまチングに「要は回転率と原価率だろ」とか言うウジがいて、「楽しそうじゃん」というホシがいて、見た目キラキラなのに地味に働くことが好きなジュンがいて、しかも「俺らならできそうじゃん」といつだって前向きで。
ウォヌはのほほんと、「じゃぁやってみるか」と言っただけ。
ダメだったらその時はその時だと言いながらも、なんだかんだと頑張って、気づけば福利厚生の良い、夜の店なのに健全経営な状態にまで持って行った。
細かいところまで突き詰めるのが好きなウジがいて、大雑把で雰囲気重視ながらも方向性を間違えないホシがいて、断然キラキラしてるのに、裏方に徹して支えるジュンがいて。
若すぎて話にならないと侮られていたのに、派手な店を切りまわしてる割には地道なやり方と、キャストやスタッフたちを大切にするその姿に、侮りはすぐに若いのになかなかって評判に変わっていった。
それだって、「結局は人だ。流行りは追う必要はない」って言ったウジがいたからなのに。
月と犬20
そりゃ俺が悪かったけど、それでも刺された意味がない。
退院が決まったっていうのにホシはまだ怒ってた。
ちょうど弁護士が来て、償う用意があると、高額な賠償額を提示していったのもあるだろう。親が仕組んだのか、それともそれすらも弁護士がやったのか、どう考えてもしそうにない慈善事業を日頃から行っていたからって、このまま法廷まで進んでも、罪はかなり軽くなるだろうって話だった。
法廷で決められる賠償額では、提示されたものの3分の1もないはずっていう説明を、ウジは真剣な顔で聞いていたけど、きっとウジなら半月もかからずにそれぐらいの額は稼ぎ出すだろう。
きっと殺してやるって言葉を引き出せてなけりゃ、不慮の事故ってことで誤魔化されていたかもしれない。それでなくても危害を加えようとしたことは認めるが、殺意があったとまでは言えないとか、裁判官でもないくせに弁護士風情が偉そうに......って、ホシが思わず口にしたウジが、「争うだけ面倒だろ」とやっぱりどうでもいい感じで言うだけだった。
「だいたい、俺を殺しかけたのはお前だしな」
そうも言っていたから、そっちの方が大きいのかもしれない。
でもやっぱり納得できないと言えば、「なんでお前の納得がいるんだよ」とウジに鼻で笑われた。
まぁ確かに......と、思わなくもないけれど。
「お前が納得するかは知らないけど、十分だよ。最後まで争って罪が問えたとしても、執行猶予がついて終わりだろ。その罪を償うやつなんていないんだから」
ウジがそう言うならそうなんだろう。
でも、やっぱり、どうしても。グズグズとそれでも納得できないと言い続けたら、「でももうウォヌにもここにも、手出しできないだろうな」と教えてくれた。
理由は金持ちだからだという。全然判らない。
まあでも金持ちケンカせずって言葉は確かにあるし、ウォヌも金持ちだからって威張るってこともない。
一度だけホシはウォヌの両親と祖父にあったことがある。普通に優しそうな人たちだった。
なんでウォヌのために働いてくれるのか。確かそう聞かれたはず。
でもホシは当然のように、「別にウォヌのために働いてないけど」って言ったら笑われた。
確かジュンは「チングだから？」って言って笑われていた。
ウジはなんて答えただろう。
月と犬21
ウジはその時のことを覚えてた。
「面白いから」
ただその一言に尽きた。
きっとウジが色々とやってることはバレていたんだろう。もっと違う場所を用意することもできるとも言われた。それも面白いかもしれない。
でも......。
仕事は確かに面白いけど、それを4人で共有するのが面白いのかもしれない。
思い描いたことをそのまま実行に移せる人はどれぐらいいるだろう。そしてそれが成功する人は。それはすべてウジの実力だと言い切りたかったけれど、そうでないことは知っている。
なんでかいつだって楽しんでくれるチングたちの存在があってこそ......だった。
金を出せば口を出す人間が多いことも知っているけれど、ウォヌは本気でどうでもいいと思ってるのか、何も言わない。
あの派手な見た目で地味な仕事を厭わないジュンは、どれだけウジの計画を下支えしてくれているだろう。無謀な企みも、遠いところにあるはずの夢も、当然のように手に入れると口にするホシの存在は欠かせない。
結局のところ相性ってだけかもしれない。誰もトップになりたがらない。何かを支配したい訳でもない。誰かを見下したりもしない。
そんなチングたちがどれほど得難い存在かは、もう判ってる。
「どうせ誰かが一番にならなきゃいけない世界なら、俺はウォヌを一番にできると思う」
強気の態度を見せようとか、大口を叩こうとか。そんな風には全然見えないウジのその言葉は、なんだか本当っぽくて、そこにいた大人たちは笑った。
でもジュンは頷いてたし、ホシはそれを聞いてヤル気になってたし、そう言われたウォヌはただ、『あ、そうなの？』みたいな顔をして笑ってた。
それぞれにらしくて、だからウジはやっぱりその時のことをよく覚えてる。
月と犬22
ウォヌはあまり外には出ない。
元からの性格もあったかもしれないけれど、ウジがそれの方が動きやすくていいと言う言葉に甘えてた。
だから名前だけが歩いてる感じで、店の売上だとか、イベントごとの采配だとか、他の店との折衝だとか。ほとんど誰かが頑張ってるだけなのに、裏ではウォヌが采配してるテイになっていた。
「いざって時はお前に出て貰うから」
ウジはよくそう言うけれど、そんな時は一向に来ない。でも気づけば名前だけ売れていた。
文句もない。ありがた迷惑ってこともない。誰かの上に立ちたいタイプでもないし。威張り散らしたいってこともないし。騒がしいことが好きでもない。
だから気づけば名前だけ表に出て、実質的には裏方の裏方の裏方の、誰かを雇ってすませればいいような事務仕事を地味にこなしてるウォヌだった。
それでも税金対策だと言われてはじめた雨の日だけ開ける店は、別に深い意味がある訳でもなく、その特異性ゆえに高額な店っていう設定になってるだけだった。
やってくるのは身内の人間ばかり。
時々ホンモノの酔っ払いも来るけれど、よっぽど酔ってなければ、価格が一切書かれてないことにビビって逃げていく。それから時々、ウォヌのことをウォヌと知って来る人もいる。
何もかも知っているって顔をしてやってくるそれらの人たちには、愛想笑いをしてやるけれど、本当に知っている人はウジが働く店を訪れるってのに。
ウォヌと何を話したって何も起こらないのに、それでもそんな人たちはそれで満足して帰っていく。
今回のように逆恨みされることもある。羨ましがられることもあれば、裏で何かをしてると疑われることもある。勝手に張り合ってくる人間もいれば、話したこともないのに嫌われていることもある。
大抵はどうでもいいと思えるのは性格からか、「別にいいじゃん。俺に嫌われたらキツイだろうけど、見知らぬ人間に嫌われたって痛くも痒くもねぇじゃん」と本気でそう思ってるらしいホシがそう言うから。
それにミンギュは当然のように「ウォヌヒョンは俺だけを見てたらいいよ」とか言うから。
夜の街の中でも驚くほどに、ウォヌの日常は穏やかに流れる。
The END
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