妄想heaven

SEVENTEEN全員でのドラマか映画が見たいな......

No War! THE LAST

注意......

「No War!」は続き物です。そして長いです。
どこかからたどり着いた方はひとまず、contentsページからどうぞ。

sevmin.hateblo.jp

No War! THE LAST

「ぁあ、神さま............」

バーノンがそう呟くのを聞いて、ジョシュアは堪らなくなった。
もう長いこと、何かに感謝を捧げることなく生きてきたバーノンだったのに、まだその人影は遠いというのに、間違えるはずがなかった。

何度か走り出そうとして、でも立ち止まる。
それはジョンハンが「ボノナ」って止めたから。

「お前を見て、劇的なことが起こるなんて、期待するなよ」

そう冷静な声で、ジョンハンが言ったからかもしれない。
エスクプスはとっくの昔に号泣しはじめていて、時々しゃがみ込んで耐えていた。それでも自分が一番に駆けつけるのを我慢したのは、まだ泣いてもいないバーノンの色んな戸惑いに気づいていたからかもしれない。

「俺を見たら、絶対思い出すと思う」

そうバーノンは言ったけど、そうならない可能性は否定できないし、何より遠目に見ても痩せて見えるスングァンを、勢いに任せて驚かせたり怯えさせたりはしたくなかった。

「俺たちは、家を訪ねてみる」

すでにジュンが家の場所も調べていて、家にはハルモニがいるというから。
エスクプスとジョンハンが道を逸れて行く。それを見送ってもまだバーノンは動き出せなかった。

ジョシュアが見守る中、少しずつ距離を詰めることもなく、ただバーノンは景色の中にいるスングァンのことを見続けていた。それが自分の見る幻じゃないことを確認してるのか、何かが変わってしまったのかを探っているのかは判らなかった。

「ヒョン」
「ん?」
「生きててくれたら、全然いいんだ」
「そうだな」
「俺のこと、覚えてなくたっていいんだ。俺のことを覚えてるスングァニのままで笑ってくれるなら幸せでしかないけど、そうじゃなくてもいいんだ。ただ笑ってくれて、幸せでいてくれるなら、それだけでいいんだ」
「ん」

バーノンにとってそれは、自分のことが大好きだったスングァンがそこにいなくても、きっと大丈夫。そう自分を納得させるための時間だったのかもしれない。

再会の時はでも、最悪だったかもしれない。
バーノンにとっては再会の時でも、スングァンにとっては出会いの時でもあって、その時スングァンは、新しく自分のものなった畑で、必死に土の状態を確かめながらも、放置されていた時間の分だけ増えた雑草を抜いてるところだった。

キレイだった手を土で汚しても全然気にせず。
でも足を庇ってるのかしゃがみ込むことはせずに、その場に座り込んだ状態で。

少しずつ近づいて、どうやって声をかけようとか悩んで、結局何も言えなくて、スングァンが顔をあげて自分を見たら、多少時間がかかっても「ボノナッ」って言ってくれるんじゃないかって望みが捨てきれないまま。

バーノンはスングァンから少し離れた場所で、同じように畑にしゃがみ込んで、その場にあった雑草に手を伸ばした。
手伝いながらその距離を、少しずつ詰めていけばいいと思ったというのに、スングァンはバーノンの存在に気づいた瞬間驚いて、それから必死に立ち上がってバーノンに詰め寄った。

「何してんだよアンタッ。ここはうちの畑なんだぞッ」

絶対に負けないって思いが、スングァンの語気を強くする。
距離を少しずつ詰めるためにも手伝いたかっただけのバーノンは「いや、手伝おうと思って」って言ったけど、「なんでアンタがうちの畑を手伝うんだよ。畑が欲しいなら他所に行けよ。ここはうちの畑だッ。ヒョンから俺が貰ったんだッ」って言いながら、手に持っていた抜いたばかりの雑草をバーノンに向かって投げつけてきたスングァンだった。

でもスングァンにしてみたら、やっと手に入れた畑で、ここだけが希望で、それも最後の希望で、寒くなるまでに何か育てなきゃ後がないことも判ってて。
それなのに親切なふりして畑を奪おうとするヤツが来たとしか思えなくて、負けないぞって必死だった分、視線だって言葉だって態度だって強かっただろう。

絶対に、自分を見たら何かを思い出すって信じてたバーノンにしてみれば、ごめんって言葉も、何か説明する言葉も出てこなかった。

ただ一言、「スングァナ......」って呟いただけ。
そう言っても、目の前のスングァンは何も反応しなかったけど............。

 

 

エスクプスとジョンハンは、2人でスングァンとハルモニが暮らす家を訪ねた。
場所はもう判っていて、最近はもう寝たきりみたいだとも聞いていた。
何を言えばいいのか、何から話せばいいのか。エスクプスと何度も話し合ってきたというのに、そんな必要は全くなかった。

声をかけて、お邪魔しますと言って家の中をのぞけば、そこにはかなり衰弱して見えるハルモニがいて、でも視線は強かったかもしれない。
それからハルモニは、「あの子の兄さんたちかい?」って言った............。

あの日、地上を逃げ惑っていたはずなのに、気づけばどっかのビルの地下駐車場にいて、何台もの車が押し潰されてもいて車が発する警報音が煩く響き渡ってて。
その時一緒にいたのがスングァンだったという。
最初はもっと他にも人がいたのに、体力のある人たちは皆、自力で壁をよじ登って行ったけど、体力のなかった自分と足を怪我してたスングァンだけがその場に残されてしまったと、誰もが知りたくて、でも知りようのなかったスングァンのあの日の様子を教えてくれたハルモニだった。

何人かは残される2人に、必ず助けを呼んでくるから............と言ってくれたけど、それが本当だったのかは判らない。2人がそこから助けられたのは、多分1週間以上も後だったはずで、うるさかった車の警報音も途切れて大分経ってからだったから。

生き延びられたのは、スングァンのポケットの中に、ハチミツのスティックがあったからだった............。
最初におかしくなったのは、どっちが先だったか。

あちこちから悲鳴や大きな物音が聞こえるたびに、震えながらもスングァンは、「ハルモニ、大丈夫だよ。絶対ヒョンたちが来てくれるから」って言ってたらしい。でもその頃スングァン以外はニューヨークにいたはずなのに。

「ヒョンジュナ」

そう最初にスングァンのことを呼んだのはハルモニの方で、一緒に逃げていたはずの孫の名前だった。
必死に逃げ惑ううちに手を離してしまったのならまだ良かったかもしれない。悔やみはしても、どこかで生きているかもしれないと思えたから。でも手は離さなかった。手だけは絶対離さなかった。

小さな手は、ハルモニと繋がれたまま。ただ身体だけは瓦礫の下敷きになって、ヒョンジュンはもう動かなかった。目の前でそれを見てたはずなのに、「ハルモニ? 大丈夫? ハルモニ?」って声をかけてきてくれたスングァンの覗き込んでくる目が、小さなヒョンジュンにそっくりで。

その日からスングァンは、ハルモニにとって長い間ヒョンジュンだった。
いつ助けがくるとも判らない中、完全におかしくなってしまわなかったのは、お互いがいたから。生き延びられたのも、そうだったはず。

「大丈夫。ヒョンたちは来てくれる。ヒョンたちがすぐに来てくれる」

ずっとスングァンは呪文のように呟いていたけれど、助け出された時の華やかな街の変わり果てた姿に、打ちのめされていた。それはハルモニだって一緒で、一緒に食事をしていた娘夫婦たちがどうなったのか、探すことすらできなかった。

まるで映画の世界のように、あちこちで人が亡くなっていたから。
この世界の中で、よくも自分たちを助けようと思ってくれたものだと、後から思えば不思議でしかなかった。
病院と言っても、ギリギリ屋根があるってだけの場所で、治療と言っても手術される訳でもなく、縫えばまだ傷は残らなかったかもしれないのに、スングァンの傷口はきつくテープで止められただけだった。

それでも日に一度は食事を貰えた。それだけでも感謝しなきゃいけない中で、あちこちからほんとか嘘かも判らない話ばかりを聞いた。

全世界で同じことが起きていたらしいとか。アメリカはもっと酷いとか。北は消えたらしいとか。逆にアメリカだけは無事だったとか。日本は無傷だとか。どれも確かめようのないものだった。

2週間病院にいて、誰かが来てくれるとお互い信じてて。
それから諦めて。

何度か遠くの方で、爆発音がして何かが燃えてるのか黒い雲が見えた。
かなり遠いはずなのにそれが見えるのは、高い建物が消えたせいだとは、その時は判ってなかったけれど、誰かがあれは飛行機が落ちたせいだって言ってた。
どこか遠くから飛んできたのか知らないけれど、ボロボロの滑走路にうまく下りれなかったのか、それとも撃墜でもされて墜落したのかは知らないが、もう飛行機はこの国にはやって来れないって言葉は、嘘かもしれないのに確かにスングァンの心のどこかを壊してしまったのかもしれない。

助けに来てくれるはずのヒョンたちの姿が、少しずつスングァンの中から消えて行く。もう二度と自分の元に、誰も帰って来ないってことを認めるよりは、忘れる方が楽だったのかもしれない。

ハルモニが昔暮らしたこの村に戻ってきた頃には、スングァンはもう、絶対ヒョンたちが来てくれるとは、言わなくなっていた......。

それからは2人、助け合って生きてきた。親切な人たちに助けられることの方が多かったけれど、それでも2人で頑張って生きてきたのに。
あの日、本当のヒョンジュンを失った時のことを思い出したのはハルモニの方だった。

もちろんスングァンと暮らしてきてことも、覚えてた。
見知らぬ青年が、家族として一緒に過ごしてくれたことも、判ってた。
でも自分のヒョンジュンは、あんなに小さくて、まだ幼くて。だから似てるとか似てないとかじゃなくて、全然違ったのに。生き延びるためには忘れる必要があったかもしれないけれど、1人だけ生き延びたって何にもならないってことも判ってて、その日からハルモニは少しずつ、生きる気力を失くしていった。

それでも一緒に暮らしたヒョンジュンを残して逝くことが気がかりではあった。
優しくて頑張り屋で、人一倍寂しがり屋で。
置いて行ってしまうことは心配でしかなかったけれど、生き続けることはもうできそうになくて。
名前も知らない青年だけど、それでもハルモニにはヒョンジュンでもあったから。

「あの子のヒョンたちが、来てくれて良かった」

そう言いながらも、ハルモニはエスクプスとジョンハンに頭も下げた。
あの場に居続けたら、もっと早く会えたかもしれないのに、自分が連れてきてしまったから............って。
でもそんなハルモニの前で膝を折ったのはジョンハンの方だった。

「ありがとうございます。アイツが、1人じゃなくて良かった............」

エスクプスがそれに続く。「一緒にいてくれて、ありがとうございます」って。
首を振りつつ頷きつつ、泣くばかりのハルモニの前で、ジョンハンだってエスクプスだって泣きながら頭を下げながら。

閉じ込められた場所に置いて行かれたのがスングァン1人じゃなくて良かった。
全員ではなかったけれど、それでも国に戻った時には1人じゃなかった自分たちですら、見慣れた街が消えさった後の姿は衝撃的で打ちのめされたのに。
その時にスングァンが1人じゃなくて良かった。
それからの長い時、季節を、スングァンが1人じゃなくて良かった。
間に合って良かった。きっとそう言えるはず。

 

 

そんなことがあってから三日後、もう少しかかるかと思ってたのに、ミンギュたちがやって来た。ミンギュの予想通りあまり動いていなかったウォヌが力尽きて、途中からは荷物と一緒に運ばれてきてた。

ミンギュが荷車をひき、ホシとウジが後ろから押す。
疲れればディエイトが変わり、1人ずつ場所を交換して休んでいく。
最後の1日はドギョムも様子を見に来てくれたから、休める人数が増えて、さらに速度は増したかもしれない。

食材と、水と。それからすぐに役立ちそうな家財道具と。ある程度はなんでもできてしまう大工道具。それだけを積んできた。
他にも冬には必要な寝袋などの防寒系のものも持ってはいたけれど、まだ必要ないと置いてきた。
ミンギュはいろいろ考えて、大切なものをあちこちに分散して隠してた。
何が起こるか判らない世の中だから。

いつだって、何かの時のためにと13人分。
ずっと13人集めるまで諦めない自分にバカみたいだって思いながらも、どうしてもやめられなかった。
ジョシュアとバーノンはアメリカで、ジュンとディエイトの消息は判らなくて、スングァンのことだって、正直諦めていたっていうのに。

「俺のせいかもしれない」

荷車を押して歩きはじめて、ミンギュはスングァンがなかな見つからなかったのは俺のせいかもしれない、と言って、誰に言うでもなく謝った。
だって、きっともうダメなんだろうって思ってたから。会いたいと強く願うよりも、どうか安らかにって祈ることの方が多かったかもしれない。
忘れたことなんて一日たりともなかったけど。
だから自分はウォヌのように幻を見ることもなかったのかもしれない。

物凄い器用で、知らないことも一度もやったことないことでも、大抵はどうにかしてしまえて、エスクプスが言うように、キムミンギュさえいれば怖いものなんてないって、皆が思ってるっていうのに。

ミンギュが謝りながら、泣きながら、鼻を啜りながら、荷車をひいていく。

「俺らはお前がいるから、ここから離れても平気だったんだよ」

ウジがそう言えば、「そうだよ。それにお前がいるから、俺たちはみんなの状況を知ることができたんじゃん」とホシも言う。
思えば、いろいろ訪ね歩いたかもしれない。
でもそれだって、今思えば自分が辛かったからかもしれない。
みんなの様子を気にかけてるふりをして、ただただ、自分が救われたかっただけかもしれない。
時々様子のおかしくなるウォヌと、ずっと一緒にいることができなかったからかも。

「でもやっぱり、探し歩いてるふりだけで、探してなかったのかも」

泣きながら歩くミンギュが力強くひく荷車の中には、久しぶりに長く歩いてヘロヘロになったウォヌが眠ってた。厚手の麻袋を解体してミンギュが編みなおしたものに包まれて。時々ガサガサと音をたてるけど、起きる気配は全然なかった。

そんなことない。そんなことないよ。そうディノも言いかけたけど、「ウォヌヒョンがいつまでも動けなかったのは、俺のせいだって自覚もあるし。誰かのために頑張ってるふりをして、全部自分のためだった気がする」ってミンギュが言うから、何も言えなくなってしまった。
たまたま動けなくなったウォヌと、守りたかったミンギュと、優しさに縋るしかなかったウォヌと、いつまでも抱きしめていたかったミンギュと。

「でも必要だったんだろ。それがコイツにも、お前にも」

立ち上がるチャンスは、動き始めるタイミングは沢山あったはずなのに。もっと早く、連れ出さなきゃいけなかったのに。
幻を見続けるウォヌを、それこそ見続けることしかできなかったのは、愛でもなんでもなかったかもしれないと、色んな事が動き始めて気づいたんだろう。
でも必要だったんだろ............とウジが言う。

「俺たちだって逃げたんだよ。シュアヒョンがいなくて、ジュニとミョンホがいなくて、スングァニも見つからなくて。13人いないことを認めるのが怖くて、俺たちだって逃げたんだ」

ウジに続けて、ホシまでもが自分たちだって逃げたんだって言う。

「だから何度もこっちには来たのに、ウォヌの前には顔を出せなかったんだ。お前ばかりに任せてごめん。本当は俺が、俺らがもっとウォヌに何やってんだよお前って、いい加減にしろよって言って、釜山にでも引っ張って行ってやらなきゃいけなかったのに」

離れてることが免罪符にはならないからなって、ウジが独り言みたいに呟いた。

「でも俺たち、必死に生きてきたじゃん」

とうとう我慢できなくなったのか、泣きながらもそう言ったのはディノだった。
いつだって守られてきた。大人になってからもヒョンたちはいつだってディノを一番に考えてくれた。食料だって水だって、ニューヨークからの帰りの船の中ですら、余裕があれば当然全員で分けたけど、余裕がなくてもディノの分はいつだって確保されていた。

いつもとは事情が違って緊急事態なんだから自分だけを特別扱いしなくてもいいって言ったのに、「お前の前でこれまで通りのヒョンでいることで、俺は正気を保ってるんだから。そこはお前が譲るべきだろ」ってユンジョンハンはディノに文句を言ったけど、やっぱり騙されてる気がしてた。

その時はまだいつも通りだったウォヌは、「騙されておけって」って笑ってたのに。

変わってしまった世界の中で、全員必死に生きてきた。それだけは確かだった。

動けなくなったウォヌだって、耐えて耐えて、同じ場所に居続けていたはずて。

「誰も悪くないよ。絶対誰も悪くないよッ」

ディノが泣く。その声が届いたのかずっと疲れ果てて死んだように寝てたのに、ウォヌが「チャナ? どうした?」って言いながら起き出してきた。

大きな声を出したからって言うよりは、それがディノだったからだろう。
いつだってウォヌは、ディノのことを愛してて、落ち込んでても失敗した後も、絶対に気づいて横に行っていたから。

「大丈夫。俺だけ、あんまり役に立たなかったなって思ったって話だから」

ディノがそう言って話を誤魔化せば、「うん。俺も。何もできないけど、何か、自分にできることを探すよ」って言う。でも目を擦りながら「ごめんでも、もうちょっと寝ていい?」とも言って、そのまままた眠りについてしまったけど。

「いつか、ウォヌヒョンと一緒に、落ち着いたら、畑でもして暮らそうかって、言ってたんだ」

鼻を啜り啜り、ミンギュが言う。

「全員揃ったら、あの時みたいに全員でラーメンを食べよう」

空気を変えるためか、ホシがそんなことを言うのに、ウジが「ラーメン? お前持ってんの? そんなの」と驚いていた。だってずっと一緒にいたのに、ラーメンがあるなんて話は聞いたことがなかったから。

「ある。3袋だけ」

一度に手に入れた訳じゃないけど味も違うし、袋タイプだからきっともう賞味期限は切れているだろうけど、そんなことはきっと誰も気にしないだろってホシが笑ってた。
ウジとホシがいた場所は基本常に人が多くいたから、そんな場所では「ラーメンがある」とは言えなかったし、かといってコッソリ2人で食べようとも言えなかったし。

「だから特別な時用に、とっといた」

いや、それならさっさと俺に食わせろよと文句を言うウジと、いや、これは感動の場面に一番ふさわしいだろっていうホシと、なんだか2人で小競り合いを続けていたけれど、「あの時みたいに」って言葉に、ミンギュもディノも一瞬で、寒くて辛くて空腹で、でも楽しかったヨソドのことを思い出していた。

1つのお菓子を全員で分け合った。
寒くて一緒にくっついて、ほとんど抱き合って眠った。
最初の夜は、荷物もなくて、火を用意するのに何時間もかかって。
ミンギュとディエイトはケンカして。
魚介類がダメなウォヌのために、エスクプスもジョンハンも自分の分は少なくていいからウォヌに多めにってコッソリ話してたのも知ってる。

まだディノはジョンハンに、当然のように「ディノは誰の赤ちゃん?」って聞かれてた頃。

「酷いよ。今そんな話するなんて」

そう言って、やっぱりボロボロと泣いたのはディノで。
あの時ディノはホシと一緒に寝たはず。夜中に布団を取られて寒くて目覚めれば、布団を抱き込んで寝てるホシはどんなに引っ張っても布団を返してくれなくて、「ホシヒョン......」って小さく途方に暮れて呟いただけなのに、眠りの浅いジョンハンが気づいてくれて、自分の布団をくれたのを覚えてる。

「ハニヒョンは? 寒くないの?」

そう聞けば、「俺は大丈夫。クプスのとこに潜り込むから」って笑ってた。寒くないはずなんてないのに、絶対寒かったはずなのに。

辛かったはずなのに戻りたいあの時は、もうずっとずっと、昔だった。
でも今、すべてを取り戻すために歩いてる。
そう思えば、泣くことを我慢する必要なんてないって思えた。

「泣くのは今日で最後にする」

カッコよくミンギュはそう宣言したのに、さっきまでラーメンで言い合っていたウジとホシから「お前嘘吐くな」「絶対無理じゃん」とツッコまれていた。
それから二日後にはまた号泣した時には、「ほらな」「やっぱりな」って言われてた。
でもウジもホシも泣いたけど。
当然、ディノも泣いたけど。

嬉しくて、会えなかった時間の長さが悲しくて。
でもきっと今からの方が長いと思ってやっぱり嬉しくて、でもいつだって会えば抱き着いてきてくれるスングァンが警戒心を隠さずに距離を取っているのが悲しくて。
でもでも、それでも、生きていてくれただけでいい。
そう思って、全員が泣くのを我慢できなかった。

 

 

本当なら全員でラーメンを食べたかったけど、ミンギュがやって来たことで、すぐにそこを旅立って行ったのはエスクプスとジョンハンだった。

バーノンは最初で思いっきり失敗していたけれど、エスクプスとジョンハンは、「こんにちは」って普通にスングァンに挨拶をした。

「今、ハルモニにも挨拶してきたんだけど」

そう言いながら、結構な人数でこの村に越してくることにしたことをスングァンに説明してた。ちょうど村を捨てて出て行く人が多くいたから、住む家はある。
もちろん町に出て、家を貰い受けたいとちゃんと挨拶をしてくるつもりだ......とまで言われれば、不信感は拭えなくても人が減る恐怖よりも、増える方が幾らか安堵感はあったんだろう。

スングァンの畑をバーノンが奪うつもりだと誤解されたことも、ジョシュアから聞いていたジョンハンは、当然のように「畑は一緒に使わせてもらいたい」って言ってのけた。

「もちろん、できたものはちゃんと分けるけど、一緒にやらなきゃ、ここではもう生き残っていくのも大変だろ?」

そう言えば、思うところがあったんだろう。
自分1人じゃどうにもならないってことも、わかってもいたはずだから。
それでも素直に頷けなかったのか、「考えてはみるけど......」って言葉を濁してた。

本当なら『もう大丈夫。お前を絶対1人になんてしないから』って言いたかったし、抱きしめてもやりたかったけど、はじめましての場だからと我慢した。

ミンギュたちがやって来るのを本当に待ち構えていて、必要最低限の、でも絶対外せないことを伝えきると、エスクプスとジョンハンはすぐにいなくなってしまった。

ホシとウジはこの村に近づいた時点であちこち見てくると先に駆け出していたから、戻ってきた時には大分小さくなった2人の背中しか見えなかっただろう。

「あれ? クプスヒョンとハニヒョンは?」

ホシの疑問にミンギュが説明しようとしたのに、何も聞いてなかったはずなのに、ウジが「チェジュだろ」ってたった一言ですべてを説明してしまった。

まだ元気なら、あそこには家族を失っても強く生きるオモニがいるはずだから。
探して、探して、探して。諦めるしかなかった時に、きっと子どもたちの魂は懐かしいチェジュに帰ってくるはずだからと、1人帰って行った人。

「いつかみんなで遊びに来てね」

そうミンギュに言ってくれた人。頷いたけど、ウォヌはまだまだ動き出せそうにない時期で、あれ以来会ってない。
スングァンが一番愛してた人で、スングァンを一番愛してた人。

空いてる家に勝手にあがり込んで荷物を広げた。今すぐにでも全員がスングァンに会いたがったけれど、それを止めたのはジョシュアで、バーノンとの再会の時は残念ながら最悪だったって話を聞かせてくれた。
エスクプスとジョンハンがちゃんと挨拶をしてから行ったから、明日には堂々と会えるはずとも聞いたから、全員が我慢した。

ずっと寝てたはずなのに、ウォヌは移動が辛かったといってまた寝てた。
バーノンは部屋の隅っこで膝を抱えてた。
その横ではジョシュアが、「もう一度出会いからはじめればいいだけだろ」って慰めていた。
その言葉に、やっぱり泣きそうになる。
辛いんじゃなくて、嬉しくて。
もう一度スングァンに、「ミンギュヒョン」って呼ばれる日が来ることが、遠くない未来だって判ってるから。

1つの家に全員で入るには狭すぎて、持ってきた荷物をミンギュがすべて家の中に持ち込んだから、もう1つの家にはホシとウジとジュンとディエイトとドギョムがいて、ミンギュと同じ家にはウォヌとジョシュアとバーノンと、ディノがいた。
初日から火を熾すのも大変で、その日は持っていた缶詰を全員で分けて食べた。人数が多いとやっぱり食べることが一番大変かもしれない。でもとりあえず、それを心配するのは明日スングァンに会ってからにしよう............。

これから生きるその場所での最初の夜は、色んなことが不安で、まだ落ち着かない夜だった。

 

 

村までもうすぐだって頃に、ジュンとドギョムが迎えに来たから、荷車を押すのをやめて、ホシとウジは、先に行くと言って村を回った。
平和そうで、何もない村だった。
悪いところもないけれど、これといって良いところもない。
余生を送るなら悪くない。でも自然相手は素人には手に余るだろう。そんな場所だった。

「どうする?」

つい最近まで水があったであろう井戸の前で、ホシが言う。
答えないでいると、「俺らは戻るか?」って、さらにホシが詰めてきた。
スングァンが生きてるだけでいい。それだけ確かめられたなら、2人でまた釜山に戻ってもいい。
きっと楽しいだろうけど、一緒にいたら幸せで毎日泣けるだろうけど、それだけじゃ生きていけないから。あの時のように2人、「俺らが必要になったら呼んで」って言って歩き出せばいい。
人数が多い多いとは言われてたけど、さすがに全員集まってこの山の中じゃ、ひと冬も越えられないかもしれない。
畑だってこれからだろうし、近場に働く場所があるとも思えない。

「俺は、お前と一緒なら、どこだっていいよ」

ホシがウジのことを見つめながら真剣な顔と声でそう言えば、今まで黙ってたってのに、いきなりウジが「その言葉絶対だな」とか言うもんだから、ちょっとだけどもって「お、おぉ」ってなったホシだった。

ここにはスングァンがいる。なら当然バーノンはここから離れないだろうし、ミンギュがいれば色んなことがどうにかなる。動きはじめたばかりのウォヌには、ここはいいリハビリになるだろう。95ラインのヒョンたちにはできれば一緒にいて欲しい。
チャイナの2人がどうするかは判らないが、それでも動くなら自分たちだろう。

「お前と一緒なら、どこだっていいよ。嘘じゃない」

ホシが再度そう言う。そしてそのまま「でも」とも続ける。「でもスングァニに会ってからにしよう。俺たちも、思いっきり泣いてからにしよう」って。頷きながらも、すでにフライングで泣きそうになっている。

13人いる。それのどこが特別なのか、きっと自分たち以外には判らない。
あの日、多くの人が亡くなって、傷ついて、散り散りになって。誰もが何かを失って、それでも必死に生きていた。色んなことを諦めた人も、惰性で生きてるだけの人もいただろうけど、多くの人が前を向いて歩くしかないと言う。いつまでも何かに囚われていたらこの生きにくい世の中ではやっていけないと言う人もいた。

口角をあげる程度に笑って頷いてやり過ごしてきたけれど、13人いるだけで幸せで。13人いないことに打ちのめされて。何度も何度も、夢を見て。
泣かないはずがない。

「明日、泣くだけ泣いたら、俺たちは俺たちの道を行こう」

そう言って、「明日は泣くぞ」ってウジが笑う。
そして、2人は本当に泣いた。動いてるスングァンを見て、泣いた。

「こんなの、泣かない訳がないじゃん」

ホシがそう言うのに、泣きながら頷いて。
ウォヌなんて座り込んでしまってもう動けなくて、いつもならそんなウォヌを助けるはずのミンギュだって泣いていて。

そんな中、一番強かったのはディノかもしれない。真っ直ぐにスングァンに向かっていって、「今日からここに住むから、よろしく」って挨拶して、名乗って、名乗られて。普通にスングァンとの新しい関係を構築しはじめたから。

遠くから、「兵役言ったの?」「うん。行ったし、俺は北に行ったから、戦闘もあった」「誰か撃った?」「実戦では一度も」って会話が聞こえてくて、昔はよくケンカしてた2人のそのやりとりに、また泣いた。
でも何が凄いって、2人で年齢の話になった時に、ディノが嘘をついて「俺の方がヒョンだよ」って言ったら、スングァンがじぃぃぃっとディノを見て、「騙されないぞ」って言ったこと。それから、「嘘じゃないよ」「いや、嘘だね」「なんでだよ」「ヒョン臭がしないもん」「ヒョン臭ってなんだよ」って、懐かしい雰囲気の言葉の応酬が行われていたこと。

いつの間に来てたのか、泣いてるウジたちの後ろでバーノンが、「俺ももう一度、スングァニとチングになれるかな」って呟いていたけど、「なれるに決まってる。アイツのことを二度とスングァニって呼べなくたって。それこそ俺たちには色んな名前があったんだから、新しい名前が一つ増えただけだろ」ってウジが言えば、スングァンが違う名前で生きてきたその人生も受け止めればいいだけなんだって気づけたんだろう。

「俺、もう一回スングァニに、惚れさせる自信あるよ」

なんでか急にそんなことを言いだしたバーノンが、涙を拭って歩き出す。
向かう先には、スングァンとディノがまだ謎に小競り合いを続けてるその場所で。
バーノンの図々しい言葉に笑いつつ、マンネラインがそこに揃うんだって思うとやっぱり泣けてくるから、全然動き出せないウジたちがいた。

でも、やっぱり一番最初に動き出したのはウジとホシで。
スングァンと話しもせずに、その場から歩きだしたから。

「俺ら、ちょっと出てくるな」

泣き笑いな感じで、手を振って歩いてく。
ジョシュアが心配顔で追いかけてくるのに、「1週間ぐらいで戻るから」ってウジが答えて、2人は去っていく。

きっと後から2人の行動の理由をジョシュアだって知ることになるはず。ミンギュやドギョムあたりは、前のことも覚えてるはずだから。
いつだってセブチの土台を支えてる2人は、踊らなくなっても、歌わなくなっても、変わらないってことなんだろう。

 

 

スングァンに、「おれ、ドギョム」って挨拶した時にちょっとだけドギョムは期待したというのに、缶詰2つもやったっていうのに、スングァンはそれをすっかり覚えてなかった。
まぁ次から次へと人がやって来て、挨拶するから顔なんて見てる暇がなかったのかもしれない。

「俺は仕事があるから、もう出なきゃいけなくて。だから次戻ってきた時に、いっぱい話そう」

そう言えば、スングァンが無難に愛想笑いをしてきたから、笑ってしまった。

「お土産は何がいい?」

そう聞いても、当然スングァンは何も希望なんて言わなかった。その横にいたディノが「なんか甘いモノ見つけてきてよ」と強請ってくる。

それに頷いて、「努力する」って答えて、それから「ミンギュや、後は任せた」って言えば、頼もしいチングが「おぅ」って答えてくれる。

大分遅くなってしまったけれど、紹介された病院に向かうつもりだった。きっとここでは、不器用で臆病で頼りない自分は役にたつよりも負担にしかならないだろうから。

ウジとホシが当然のように去って行く姿を見て、ドギョムも自分が行く場所を思い出したぐらいだから、ちょっとだけやっぱり鈍臭かったけど。

「そこまで一緒に」

そう言って、ジョシュアがドギョムと一緒に歩き出す。

だから「シュアヒョン、俺、病院で働いてるんだよ。お手伝いのレベルだけどさ」って、自慢できることを話しながら。山ほどしでかした失敗話は当然内緒で。

「そりゃお前ならなんだってできるよ」

そう褒めてくれながら一緒に歩いて、時折、「もう少し、一緒にいたって大丈夫なんじゃないか? ようやく会えたのに」ってジョシュアが引き止めようとする。

きっと昔の自分なら、その甘い言葉に負けていたかもしれない。

「俺もう、欲しいものを手当たり次第に買ったりしないんだよ」

それは多くの人にとっては当たり前で当然のことなのに、ドギョムは自慢する。ネットでポチろうと思うたびに、荷物が宿舎に届くたびに、誰かの何かをみて「いいなぁそれ」ってドギョムが言うたびに、ジョシュアはいつだって、「お前もう、似たようなの持ってるだろ」って言ってきたから。

それなのに、今は自分が持ち運べる分しか荷物はなくて、持ってた食料や可燃性のものは、昨夜のうちに新しく家と定めたその場所に、ドギョムは全部差し出してしまった。

「全部は出すなよ。何かあった時の保険は持っていけよ」

そういうミンギュに、「大丈夫だって」って笑いながら、皆が少しでも居心地よく暮らせるように。生きていくのに困らないように。

「落ち着いたら、俺が働いてるところを見にきてよ」

そう言うドギョムは、キラキラ輝いていたかもしれない。

「ドギョマ、お前、いい男になったな」

だからジョシュアが素直にそう口にしたって言うのに、ドギョムは一瞬驚いて、それから顔をくしゃくしゃにして泣き始める。

ただただ褒められて嬉しかったってのもあるけれど、そこにはいつだってちゃんと見ててくれて、気づいてくれる昔となんら変わりのない優しいジョシュアがいたから。

「ドギョマお前、泣き虫は相変わらずなのな」

昔のままに優しく笑ってくれるジョシュアを前に、ますます涙が止めらなくなったドギョムがいたけれど、「行ってくる」って手を振って、まだまだついて来ようとするジョシュアを押しとどめて旅立った。
帰る場所ができたと喜んで、頑張る理由ができたと喜んで、何度も何度も振り返って手を振って。

振り返るたびに、同じ場所にジョシュアがいた。
だから笑って「もう帰ってよヒョンッ」って叫んでも、ジョシュアが「わかったわかった」って言いながらも動かなくて。
振り返るたびに笑って、時々泣いて、何度も大きく手を振って。

「あぁもうなかなか進まないじゃん」

そう言いながらもこれが最後だと振り返って手を振れば、遠い遠い場所でずっと手を振ってくれてたジョシュアがしゃがみ込んだ。
物凄く遠かったのに、ずっと笑ってくれてたジョシュアが、その手で顔を覆いながらしゃがみ込んだのが見えた。

だからドギョムは子どもみたいに、「わ~ん」って泣いて。それからかなり時間をかけて歩いた距離を、必死に走って戻った。

「シュアヒョンッ」

あぁこれで、ジョシュアが「目に埃が入っただけだけど?」とか、さらっと言ったらどうしようとか考えつつも、たどり着いてみたら、ジョシュアはやっぱり泣いていた。

「バカなだ。お前、なんで戻ってくるんだよ」

って言いながら。それでも両手を広げてくれるからドギョムだって当然両手を広げて抱きしめる。

「俺が泣いたからだな。ごめんな」

いつだって笑ってるヒョンなのに。ジョシュアはいつだって笑って励ましてくれて「お前なら大丈夫」って言ってくれるヒョンで。そんなジョシュアにドギョムは何度救われてきただろう。
それなのに、目の前にいるジョシュアは辛そうに泣いてて、抱きしめあっていても立ち上がろうともしない。

「あぁ、ごめん。ちゃんとお前のことを笑って見送るつもりだったのに、辛いことには耐えられるのに、お前の成長が嬉しくて、幸せで。そう思ったら涙、止まらなくなっちゃったんだよ」

そう言って泣くジョシュアを抱きしめながらも、ドギョムだって当然泣くから、2人でずっと涙が止まらなくて。

「ヒョンたち、何やってるの?」

そう言ってディノが上から見下ろしてくるまで、大分長い間泣いていた2人だった。


 

一番最初にスングァンに、ヒョンって呼ばれたのはジュンだった。
まぁディエイトを走らせた次の日から、毎日スングァンのもとに通っては、「昨日ぶり」とか「さっきぶり」とか言って挨拶してたし。
あっけらかんと「俺のことはヒョンでいいよ」と言い切っていたから。

「俺たち、名前似てるな」

そう言えばスングァンも「そうかも」って頷いて、最初にあったはずの警戒心が消えてしまうのは、逆にジュンが心配するほど早かったかもしれない。

「チングやヒョンたちにさ。ジュニって呼ばれるのも、ジュナって呼ばれるのも、俺、好きなんだ」

スングァンが新しい畑に座り込みながら必死に雑草を取り除いてる横で、ジュンは何も手伝いもせずに話しかけるだけだった。

「なんで? そんなの普通なのに」

最初は戸惑っていたスングァンも、適当にやって来ては暇つぶしのように横に座り込んでちょっと話して、また「じゃぁな」って去っていくジュンは、慣れてしまえば良い話し相手で負担にはならなかったんだろう。

「全然普通じゃないよ。この国来てからそれが一番驚いたもん」

ジュンが普通にそう言えば、目を真ん丸にしたスングァンが、「ヒョン、韓国の人じゃないの?」って驚いていた。
でもそれを知ったとて、スングァンが態度を変えたりしないことは、もう判ってる。

スングァンが必死に整えようとしてる畑で、手伝いもせずにゴロゴロしてても、別段スングァンは怒らなかった。さすがにスングァンが頑張って掘ってる場所に横から土をかけたら怒られたけど、それでもそれは「もぉ、やめてよ」って程度で、知り合ったばかりだというのに2人の関係は、それほど悪くなかった。

「あぁ、足をケガしてなかったら、たくさん手伝ってやれるのに」

ジュンが真剣な顔でそう言えば、「足なんて今必要ないじゃん。俺だって座りこんで作業してるのに」ってスングァンがツッコんでくる。

「雑草抜いてるだけなんだから、手で手伝ってくれてもいいんだよ」

スングァンがジュンに、「手伝う気があるならね」って言えば、「手伝う気はある。でも手が汚れるのは嫌だ」とジュンが堂々と答えるもんだから、スングァンが笑った。

「なんだよそれ。畑仕事なんだから手は汚れるに決まってるじゃん」

笑う姿を、ジュンが眩しそうに見てることも気づかずに、汚れたその手で顔を触るから、顔まで汚しながら、でも楽しそうに笑う。

「畑は手伝ってやらないけど、他に何か欲しいものとかないの?」

ジュンがそう言えば、スングァンの視線は井戸がある方を向いたけど、さすがにそれは無理だってわかってるんだろう。

「種かな。せっかく畑が手に入ったけど、芋しか育てられそうにないから。後は水を撒くのに役立つ何かかな」

何度も往復するのが苦しいからか、一度に大量の水を汲んでくる。だけどそれを持って畑のはしからはしまで水をやるのは、スングァンの足では大変だろう。

「種と、水を撒く道具か......。わかった」

あっさりとジュンが請け負うから、スングァンはちょっとだけ驚いて、「ヒョンはそういうの、どうにかできる人なの?」って聞いてきた。その視線は少しだけ期待してるのかキラキラしてたっていうのに、ジュンが「俺が? まさか」ってこれまたあっさりと答えるから、「期待して損したじゃん」ってスングァンがむくれてた。

「でも俺は、なんとかできる奴を知ってるから大丈夫」

ジュンが得意気な顔でそう言う。
まだ今のスングァンは知らないだろうけど、自分たちにはなんだって器用にこなすミンギュがいる。弟たちのためには苦労も厭わないヒョンたちがいる。
もう少しすれば、なんだって楽しんで喜んでくれるマンネラインだって揃うんだから、きっとこれから立ち向かわなきゃいけない苦労があったとしても、どうにかなるだろう。

2段ベッドをギューギュー詰めたあの部屋で暮らしたころから、いつだってなんだって、どうにかなると信じてそう言い続けてきた。
ハオと2人、先の見えない中で過ごした間にも、ジョンハンの言葉に助けられて、いつか帰る場所があると思うだけで耐えられた。

そんな心の支えがスングァンにはなかったんだと思うと堪らなくなるけれど、これからは、どんなことがあろうと誰かがそばにいる。
もう少ししたら、出会いで躓いたバーノンが、へこたれずに畑にやって来る。
いつだって出足が遅いのは、川から水を汲んで来るから。

「俺に話すみたいに、あいつにも話してやらないの?」

ジュンなんて手伝いなんて何一つしてなくて、なんなら邪魔しかしてないってのに、スングァンの側に座り込んで楽しそうに話してる。
一方バーノンは、水を汲んできたらそれを畑に少しずつ撒いていく。
スングァンがいないと探すけど、いればそれほど気にした風もなく、スングァンのように雑草を抜くときもあれば、畑の土を混ぜて空気を入れていたりして。
どちらもお互いの存在を気にしてるのに、微妙な距離をとったままで縮まる気配もない。

「意地悪してやるなよ」

そう言えば、「意地悪なんてしてないよッ」ってスングァンが怒ったように言う。
ただちょっとだけ気まずいだけなんだろう。
友達になれば、きっとスングァンはビックリするほど気の合うことに驚くかもしれない。
いつだって2人で、遊ぶものがなくたって、地味なゲームを考えては楽しそうに笑ってた。全然性格の違う2人なのに、魂がピッタリ合うかのような2人で。
大好きだってことを隠さないスングァンに、愛おしいって視線が語ってるバーノンに。
この2人は、きっと一生一緒にいるんだろうなって思える2人だったから。

「お前が、ごめんなって言ってやればいいじゃん」

そう言えば、ちょっとだけ考えたスングァンが、「嫌だよ。俺は悪くないもん」って言うから、2人が昔ケンカした時と同じで笑ってしまった。

仲がいいのにすぐケンカして、それでも毎日一緒にいて、笑って見守ってれば時々は口も聞かずに何日もお互いを無視してて。

あぁあの時、「仲直りできないケンカはするなよ。時間がもったいないぞ」って言って2人を仲直りさせたのはジョンハンで。

「時間がもったいないよ」

だから今度はジュンがそう言ってあげる。
でも何も覚えてないスングァンには、その言葉の意味は、よく判らなかったかもしれない。

「でも、俺は悪くないもん」
「じゃぁ謝らなくてもいいけど、一緒に頑張ればいいだろ。きっと作業はもっとずっと進んで、大変なのは半減して、喜びは倍になるだろ」

その言葉に返事はなくて、スングァンはその後ずっと黙って働いていたけど、きっと色々考えてるんだろう。だからまたジュンは「じゃぁな。俺は休憩終わり」って言って立ち上がった。

休憩終わりも何も、何もしてないってのに............。

 

 

大きな町まで来て、一番にしたのは済州までの船を探すこと。
それから往復に必要なお金を用意すること。
これまで働いた分だってもちろんあるから、余裕なはずだった。でも帰りにはできるだけ生活に必要なものを買って帰りたいと思っていたし、帰りの移動には歩き以外を予定していたから。

行きは2人で、帰りは恐らく3人で。
往復で安くしてくれればありがたいけれど、たどり着いた場所で待っていてもらうこともできないだろう。会えると信じているけど、会えないかもしれないから。
最後に知らせてきてくれた住所を訪ねるだけでいいはずだけど、人生は、予期せぬことばかり起きるから。

色んなものを品定めするためにお互い別々の方向を見てたけど、離れたりはしてなかったっていうのに、気づけばジョンハンの横には若い男がいて、「クプスや~、この人が往復乗せてくれるって」って、ジョンハンがご機嫌そうに笑ってた。

「幾らで?」

当然そう聞いたのに、「タダでいいって」ってジョンハンが言うから、「は? お前何言ってんの?」って言いながらも慌ててジョンハンの腕を引く。

「まぁお金はかからないけど、俺のコレが欲しいって」

そう言ってジョンハンが、後ろでまとめてる髪を指差すから「は?」って言いながら、ジョンハンのことを自分の後ろに隠すように押しやった。

「いや、俺は別に全然いいよ。どうせ落ち着いたらミンギュに切ってもらつもりでいたし。帰りの船がついてから切るので良いって言うし」

紐でまとめてるだけのその髪を、括り直してた時を見られていたらしい。
切るのも面倒で伸ばしてるとは言っていたけれ、遠く離れたチングや弟たちの無事を願って伸ばしていたことを知っている。だから少し前までなら決してその髪を切るだなんて言わなかっただろう。

でも今は、スングァンまでもを取り戻したとあっては、切っても何も問題ないと思ったのか。
ミンギュが切れば、それはその後ゴミになるだけだってことは判ってる。それでも切った後のジョンハンの髪を、見知らぬ誰かが持っているなんて許されないし、考えたくもない。
だから当然「ダメに決まってるだろ」って言ったのに、「でもクプスや。妹さんの為なんだってよ」ってジョンハンが言う。

クプスが気づく前に、その若い男はジョンハンにちゃんと髪を売って欲しいと声をかけ、その理由も口にしていたらしい。

若い男が指差す先には、小さめだけど足の早そうな船があって、そこには船を掃除する小柄な女性の姿も見えた。頭全体をバンダナで隠しているのは、あの日、降り注ぐ火の粉でほとんど焼けてしまった髪と、火傷を負って焼け爛れた痕を隠すためだという。

「でも俺の髪があったって、さすがに鬘は作れないだろ?」

女の子を見れば、ジョンハンはいつだって妹のことを思い出すんだろう。
ほら今もまた、笑いもせずに黙々と船を掃除するその姿に、完全に他人だというのに辛そうな顔をする。

人は誰だって、小さな幸せを積み重ねて癒されて生きていくはずだから。そんな中でも女の子や女の人は、自分に多少自信がなくてもカワイイものには弱くて、お洒落することはキライじゃなくて。

「船を頼むよ。約束通り、お代は俺の髪で、帰ってきた時に支払うよ」

自分の髪なんかで本当にいいのかって念を押しながらも、ジョンハンが決めてしまった。
変な輩って訳じゃなければジョンハンを庇う必要もなくて、それほど大きくもない船は2人を乗せてすぐに動き始めた。向かう先は、スングァンのオンマが子どもたちを思いながら暮らす家。

最後に会った時は憔悴しきっていたけれど、それはお互い様だったかもしれない。
スングァンを見つけたら、すぐに迎えに行くと約束したけれど、見つけられなかったとしてもいつかチェジュに遊びに来てほしいと言っていた。

メンバーのことを家族とも、家族以上とも思っていたけれど、それでも自分の腹を痛めて生んだ人には、その悲しみの深さも、絶望感も喪失感も敵わないだろう。
判ってはいても、その時は色んなことがありすぎて気づかってはあげられなかった。
スングァンのことは探し続けるとも、絶対見つけるとも言ったけど、どこかに諦めがあったことも透けて見えていたかもしれない。

スングァンが世界で一番愛してた人がチェジュに帰って行ったのは、愛した子どもたちの魂はきっとチェジュに戻ってくると思ったからだろう。
だってそれは、エスクプスだって思っていたから。
スングァンの心はきっとチェジュに戻って、大好きな故郷の風となって綺麗な景色の中で、好きな歌を思う存分歌って、ただただ幸せに暮らしているだろうって、願うように信じてたから。

一人で逝かせてしまったことだけが、堪らなく悔しくて申し訳なくて悲しくて辛くて。
それでなくても怖がりで寂しがりで、セブチのことを、メンバーたちのことを愛してるっていつだって言ってくれて、ずっとずっと俺たち一緒だよねって言っていた奴だったのに。

船が少しずつ済州に近づいていく。
小さな島だったはずなのにたどり着いてみれば大きくて、車でなら簡単に1周してしまえるのに、きっと歩けばかなりかかるだろう。
船は2人を下した後、荷物を届ける仕事があるからと去って行った。1週間後、同じ場所で拾ってもらう約束をして。

「探す必要はないと思う」

ジョンハンがそう言って迷いもなく歩き出す。何度か一緒に済州には来たけれど、家なんて訪れたことがないっていうのに、向かう先は判ってるとばかりに。

「俺だって住所は判るけど、なんで迷いなく進むんだよ」

後をついて歩きながらそう聞けば、「俺むかし、GoogleMapでスングァニの家までの道を辿らされたから」ってジョンハンが笑ってた。
いつか長い休みが貰えたら、いろんな場所を旅行したいって話になった時だったと思うって言いながら、その時の話を聞かせてくれた。

バカみたいな話も、カワイイ話も、ジョンハンが楽しそうに話し、それを聞いて一緒に笑う。そんな思い出話ができるのも、それはスングァンが生きていているからで、楽しくて、幸せで、時々やっぱり泣いてしまうけれど、少し前までなら黙って黙々と歩くばかりだっただろうに............。

疲れたら休み。海風に押されるようにまた歩き。長い長い真っ直ぐな道に飽きながらも歩いた。人は思ったよりも少なくて、そして若い人も少なかった。旅行客なんて来なくなってしまえば、生きにくい場所でしかないのかもしれない。
そしてここにも崩れた建物は多かった。
外から来る人間の方が珍しいのか、遠目に見てる人は多くいたかもしれない。それはきっと人伝に、伝わっていくからだろう。
仕事の手を止めてこちらを見る人や、家の中からわざわざ様子を見に出てくる人もいて、まだ遠かったのに、その人はすぐに判った。でも、一回り以上小さくなった印象だったけど。

「オモニ~」

ジョンハンが両手を振って叫ぶ。その声が届いたかどうかは判らないけど、手に持っていた籠を落としたのは見えた。
だからきっと2人が訪ねてきた意味が判ったんだろう。

「オモニッ! 迎えにきたよッ! 俺たち、迎えにきたんだよッ!!」

叫びながら、堪らなくなったのかジョンハンはその場で泣き出してしゃがみ込む。だから続きを引き取って、「見つけたんだッ! 俺たちスングァニを、見つけたんだッ!!」って叫んだのはエスクプスで、まだ大分遠かったのに、その人が顔を覆ってその場に力尽きたように座り込む姿が見えた。

自分の中ではそれは、音のない映画のエンディングみたいな映像になって記憶に残ったかもしれない。ジョンハンを抱き起して走り始めて、でも力が抜けるジョンハンは何度もしゃがみ込んでしまって、泣きながら「先に行けって」って言うから一人でオモニのいる場所まで駆けた。

でも辿りついてみればオモニだってその場で泣きじゃくるばかりで、神様って言葉と、スングァナを呼ぶ声と、ご先祖様なのかたくさんの名前も口にしてた。ありとあらゆるものに感謝して、エスクプスの足にもしがみ付いて何度も頭を下げてくれた。

見つけたけれど、実際に見つけたのはドギョムだったことは、大分後になって話せたぐらいで、やっぱりもう一度ジョンハンのもとに戻って抱えて戻ってくれば、オモニとジョンハンは抱き合って泣きだして。物語はそこで終わるみたいな、クライマックスみたいな感じだった。

エスクプスだって一緒に泣いたけど、最後の方では笑ってしまった。だってあまりにも、2人がアイゴアイゴって言いながら号泣してるから。
泣きながらも、スングァンの現状を伝えて、見つけた経緯を伝えて、何もかも忘れて違う名で呼ばれてたって優しい性格は相変わらずで、年老いたハルモニを労りながら暮らしてる様子を伝えれば、やっぱりオモニはまた泣いて。

「迎えに来たんだよ、俺たち」

ジョンハンが再度そう言えば、オモニは頷いて。準備は明日からでいいと言ってるのに、夜明けとともに家を出るぐらいの勢いで必要なものをまとめだす。

その基準はエスクプスとジョンハンには判らないから、「蒸し器はいる」と言われれば、お互い顔を見合わせて「いるかな?」って言いあいながらも持って帰る荷物と一緒にする。
味噌に、厚手の服に、みかんに、鉄の鍋に。手作りの家族の位牌に。

「オモニ、みかんはさすがに、もたないと思う。まぁ、道々俺らが食べるからいいけど」

どんどん溜まっていく荷物を見てジョンハンが時折声を挟む。
明かりもないのに夜遅くまでバタバタしてるからか、近所の人たちも様子を見に来る。そのたびに持っていけないものを餞別にと渡しはじめるから、さらに時間はかかってた。

でも近所の人たちがオモニに、「戻って来るかもしれないから、それまで預かってるつもりでいる」と言うのを聞いて、有り難く思う。時には「騙されてるんじゃないか」って心配してくれる人もいて、喜んでくれる人たちも当然いて、オモニがここでちゃんと生きていたことを知れたから。

結局力尽きたようにして朝方眠りについて、全員寝坊して。朝一番に出るつもりが、起きたら昼は過ぎていた。家財道具は全部しまい込んでしまったから昼飯を作ることもできないとオモニが笑っていて、近所の人たちが親切に昼飯を作ってくれた。

それからまた、「ありがとう」やら「寂しくなる」やら「元気で」やら。
落ち着く場所の確認やら。

オモニが笑いながら泣いて。ジョンハンも一緒になって泣いていた。
それから3人で歩き出した。でも振り返り振り返り手を振りながらだから、そこから離れるのだって時間がかかったかもしれない。

体力の差は如何ともし難くて、当然のように行きしよりも倍以上の時間がかかったけど、オモニは弱音なんて吐かなかった。荷物はほとんどエクスプスとジョンハンで分担して、オモニは家族の位牌だけを持っていた。
そこにはまだスングァンの名が書かれたものもあったけど、それを捨てるのは、この目でちゃんと確認してからって言っていた。それもそうだろう。だってずっと家族に話しかけるように、毎日毎日、その位牌に向かって話しかけてきたんだろうから、

今もオモニは「スングァニのところに行こうね」って、話しかけていた。それはようやく海が見えた時で、二度と済州から出ることないと思ってたのにねって、やっぱりオモニはその腕に抱えた家族に話しかけていた。

帰りの船は、約束通りエスクプスたちを待っていてくれた。
海は思いのほか凪いでいて、戻って来るのは一瞬だったかもしれない。
それでも帰りの船の上でジョンハンがバッサリと髪を切ったその姿にオモニは驚いていたけれど、事情を聴いて、ジョンハンの髪を束ねて幾つかのバンダナに縫い付けてくれた。
さすがに鬘は無理だけど、バンダナをした時にお洒落を少しでも楽しめるようにって。
たぶんそんなこと、オモニ以外には思いつきもしなかっただろうし、できなかっただろう。

それにきっと、それを彼女にすすめることも、つけてあげることも、どれもオモニ以上にできる人はいなかったはず。
つい昨日まではジョンハンの髪だったはずのそれをつけた彼女は、ただ黙々と働くだけだったのに、最後には明るく手を振ってくれた。

それにもオモニは涙ぐみながら手を振り振り、歩く。
ジョンハンが妹を思い出すように、オモニはスングァンのヌナたちを思い出すんだろう。
髪の短いジョンハンは久しぶりで、「なんかスースーする」って本人も言っていた。結構整えたつもりでもあちこち揃ってなくて、「早く帰って、ミンギュに整えてもらわなきゃ」って。

どんな暮らしが待っているのかは判らない。
スングァンが色んなことを思い出すかどうかも判らない。
でも思い出すことで苦しむぐらいなら、忘れたままでも構わない。
不意に、なにかの切欠で思い出すならしょうがないけど、そうでないなら無理はさせたくなかった。
オモニにしてみたら、そんな酷い話はないかもしれないっていうのに、3人での帰り道に、そんな話もちゃんとした。

でもオモニは、もう泣かなかった。誰のうちの子になってても構わない。ただ生きててくれたなら、なんの問題もなくて、欲を言うなら笑って暮らしててくれれば、嬉しいだけで。それにあの子には、頼りになる兄さんたちがたくさんいるからってそう言って。ここ数年は口にこそ出さなかったけれど神様を恨んでばかりだったから、これからは感謝だけして生きていく。そう言って、持ってきたみかんを食べて力強く笑ってた。

エスクプスはこれから何度だって後悔するはずなのに、まだそこまでは思えないのに。
きっと決めたら、女の人の方が強いのか、それともそれはオモニだからか。

あと少し、この坂をのぼり切ればスングァンの暮らす村で、今後は自分達の暮らす村............ってところで、坂の上から声がした。

「わーーーーーーー。もう何やってんだよッ。逃げちゃうだろッ」

それはスングァンの声で、声は怒ってるっていうよりは必死な感じで、いつだって負けたくなくてなんだって真剣に頑張っちゃうスングァンの、懐かしい口調だった。

「でもカゴが緩いんだよ。サイズ感が間違ってるんだよ」

そう言ったその声はバーノンのもので、2人のやりとりが昔のままに聞こえて、一瞬スングァンが全てを思い出したのかと期待したほど。

「俺ひとりでできるんだから、お前は手を出すなよ」

でもスングァンのその言葉に、期待は儚く散った。だってスングァンならバーノンのことをお前なんて言わないし、何よりなんだって一緒にやりたがったはずだから。

「「あぁッ」」

そんな声は2人一緒で、見れば坂道を必死に走って来たのはバーノンで、その後ろを足を引き摺りながらも小走りにやって来るスングァンがいた。

「クプスヒョンッ、捕まえてッ」

エスクプスとジョンハンを見つけたバーノンが叫んだけど、何を捕まえるのかが判らなかった。
でも次の瞬間には、結構しっかりとしたニワトリが空から降ってきたけど。

「ニワトリって結構しっかり飛ぶんだ」って、ジョンハンが驚いていた。

でもどうしたってニワトリだから、飛び続けることは難しかったんだろう。エスクプスの少し手前に着地したニワトリは興奮してるのか、それからテケテケと走り回ってた。

結構な勢いで駆け下りて来たバーノンはその手にカゴを持っていてそれでニワトリを捕まえるつもりだったのに、エスクプスの後ろにオモニを見つけて、驚きすぎたのかピタリと止まってしまった。

「オモニ............」

スングァンと一緒に済州の家に行った時、スングァンもバーノンもオモニも笑ってた。
2人が旅行から帰ってきたその日から、何度も何度も、テーブルに乗り切らないほどの料理が出されて、足元にまで皿を並べてさすがに作りすぎだって、3人で爆笑したって話を聞かされた。写真だって全員が見られるカトクに次から次へとあげられて。

でも最後にバーノンがオモニと会ったのは、お互い絶望してたあの時で、言葉も交わしてなかったかもしれない。オモニは泣いてばかりで。バーノンは立ち尽くしてばかりで。
嬉しいはずの再会さえ、痛みが伴うこともあることは、エスクプスだってもう知っているから。

「わぁッ。どうしたんだよ、このニワトリッ」

でもジョンハンがテンション高くそう言って、その場の空気を変えてみせた。だって坂の上から必死に駆けてくるスングァンの姿が見えたから。

「な、なにボーっとしてんだよッ、早く捕まえないとッ」

そう叫ぶスングァンの声まで聞こえてきて、バーノンは慌ててニワトリに向かって手にしてたカゴを差し出すけれど、テケテケ走り回ってるだけのニワトリが、カゴが振り下ろされるその一瞬だけは物凄い瞬発力で逃げる。しかもニワトリに対してのカゴがちょっと大雑把な作りだからか、捕まえたとしても勢いがあれば逃げられそうだった。

ジョンハンが手伝おうとしても、ニワトリの方が勢いがあった。バーノンとジョンハンとで挟み撃ちを狙っても、捕まえようとすると羽ばたいて飛んだりもする。ましてや油断したらつついてこようともする。その間にも、スングァンがようやく追いついてきて、「早く早く。逃げられちゃうよッ」って叫んでる。

エスクプスは、オモニが泣くかと思った。済州で遠くから崩れ落ちるようにしてその場に座り込んで号泣した時のように、スングァンの姿を目の前にして耐えられないだろうって。
なのにオモニは笑って、「そんなんじゃいつまでたっても捕まらないでしょ」って言いながら、持ってきた荷物の中から雑穀をひと掴み取り出してその場に撒くと、逃げ回ってたはずのニワトリがピタリとその場にとどまって、慌てて摘みだす。

「ほら、今、ゆっくりと真上から」

オモニの言葉に、バーノンがそっと近づいて真上からカゴをおろせば、さっきまではあんなに走り回ってたのに、ニワトリは簡単に捕まった。
カゴは確かにニワトリに対して緩かったかもしれない。でもそれもオモニが荷物の中からヒモを取り出して、カゴに巻き付けて締め上げて、ニワトリが逃げないようにしてくれた。
たぶんこれで地味にカゴを地面に這わすように動けば、ニワトリに逃げられずに家に帰れるかもしれない。坂道はなかなかキツイかもしれないけれど。

母は強し......。そんな言葉を思い出しながらも、どうやって紹介しよう......と、戸惑ってもいた。スングァンはオモニに「ありがとうございますッ」って嬉しそうに笑いながらお礼を口にしていて、オモニを前にしても何かを思い出した素振りもない。

誰の母と、言えばいいのか............。
悩んだのは一瞬だった。それはそんなことを気にしてる場合じゃなくなったから。

「ニワトリなんて、どうしたんだよ」

そうジョンハンが、バーノンに向かって聞いたから。
それに対してバーノンが返した言葉が、衝撃的だったから。

「ウジヒョンとホシヒョンが、連れてきたんだよ。あと、もう乳はでないけど牛もいるよ。ニワトリ5羽と、牛一頭」
「ニワトリに牛? そんなの、一体どこからどうやって連れてきたんだよ」
「ウジヒョンとホシヒョンは身売りしたんだって。ニワトリと牛がここでは絶対必要だからって」
「は? なんだって?」
「ニワトリは卵を産むし、いざとなたら食料になるし。牛は乳は出ないけど畑仕事や物を運ぶのに役立つし、いざとなったらやっぱり食料になるからって」

バーノンはニワトリと牛が必要だって部分を説明をしてくれたけど、ジョンハンが聞き返したのはそこじゃない。

「み、身売りッ? なんだよそれ」

エスクプスだって慌ててそこを聞き返したっていうのに、「ジュニヒョンもミンギュヒョンも、大丈夫だってしか言わなかった」っていうバーノンだって、納得はしてないんだろう。だけど詳しくは聞けてないのか教えてもらえなかったのか。

「あの2人は? どこにいるッ?」
「今、家の近くに鳥小屋作ってる。みんなと一緒に。でも明日にはここを出るって」

ジョンハンが持ってた荷物全部投げ捨てて、坂道を駆けあがっていく。当然エスクプスだって、それに続く。

「悪ぃボノナ、荷物と、オモニを頼む」

振り向きながらそれだけ叫んで、後は真っ直ぐ前を駆けていくジョンハンを追いかける。
あの頃からウジは、いつだって全然平気って顔でセブチのため無理をする。
そんなウジの横に立つのはホシで、気づけばいつだってお互いを支えあっていた。
セブチを作ってたのは確実にあの2人で、思えば無理ばかりさせた。なのに2人はいつだって笑ってて、俺たち楽しんでるし、自分たちのためにやってるんだよって言ってくれて、その言葉に甘えてた。

でも今度ばかりは違う。もう自分たちのために2人が犠牲になることなんて、必要もないのに............。

 

 

その人はスングァンに、「はじめまして」って言った。
ニワトリを捕まえるのを手伝ってくれたその人は、一緒に帰ってきたヒョンたちに、「オモニ」って呼ばれてた。
キレイで、優しそうな人だった。

でもエスクプスとジョンハンが駆けていってしまったから、そこには結構な荷物と捕まえたばかりのカゴに入ったニワトリとオモニとバーノンとスングァンだけが残されて、かなりどうしよう......って空気になったかもしれない。

本当ならバーノンが走って誰かを呼びに行って、荷物を運べる人間を連れてくれば一番楽だっただろうけど、その場にはじめて会った人と残されても困る。だから「俺が誰か呼んでくるよ」って言ったのに、バーノンは「大丈夫。ヒョンたちが上に行ったから、放っておいてもシュアヒョンとドギョミヒョンあたりがやって来るよ」って笑ってた。

ある日突然やって来て、この村に住みだした人たちは、全員家族のような感じだったけど、他人同士だという。
ハルモニと2人冬を超えるのも厳しいと思ってた時だったから、ある意味救われたのかもしれない。でもまだ油断しないぞって思ってたのに、基本的にみんな優しいから、ついつい絆されそうになる。
それに村には牛とニワトリ5羽が増えた。

「今日、俺は仕事があるからここを離れるから」

そう挨拶しに来てくれたはずのドギョムが、その日は結局戻ってきた。送っていったはずのジョシュアと一緒に。
泣き笑いな感じの笑顔で「戻ってきちゃったけど、明日は行くから」って言ってたのに、結局ズルズルと1週間ぐらいはいたかもしれない。毎日「明日は」「明日こそは」って言ってたけど。

もうみんなが「はいはい」って笑ってたけど、「今日は本気で行く」って言いながらドギョムが出て行った時には誰もが「あ、今回こそ本気だ」って思ったっていうのに、その日にも戻ってきた。今度は牛とニワトリを連れてきたホシとウジと途中で出会ったと言って。

「ウジヒョン、どうしたのこれ」

そうミンギュが言ったから、小さいけどミンギュよりもヒョンなんだと知ったウジは、じっとスングァンを見てた。
一緒に戻ってきたホシが、「俺ら、身売りしたんだ」って笑ってて、全員がギョッてなってたのに、「まだ働いてもないのに、乳は出ないけど牛にニワトリって、凄くない?」って続けて言うから、「そうかも......」ってあっさりミンギュは納得してた。

スングァンには、どこに納得する場所があったかなんて全然判らなかった。
そこで、2年は働くという。牛とニワトリ分は働かなきゃなと、やっぱりホシは笑ってた。

知り合ったばかりだから、人となりはよく判らない。いきなり増えたから、まだ名前も覚えられてない。でも誤魔化すように笑えば、全部バレてる気もしてちょっと気まずい。

ニワトリは全部同じように見えて、トサカの色が微妙に違った。これなら色の濃いものから薄いものまで、覚えられるかもしれない。
その姿を見た瞬間にはテンションあがって実は名前を付けたかったけど、牛もニワトリも自分のものではなかったから我慢した。もしも彼らがこの村に愛想をつかしたら、一緒にいなくなってしまうんだから............。

でもディノが、「わぁ、名前を6つも考えなきゃいけないんだ」って言えば、ミンギュが慌てたように「バカ、名前なんて付けるなよ。いざとなった時に食べられないだろ」って言ったから、なるほど......って思ったというのに......。

「え? ごめん俺、もう名前つけちゃったけど」

そう言って謝ったのはドギョムで、ホシとウジと出会って一緒に戻って来る間に、名前はもうつけちゃったという。

牛はソーちゃんで、ニワトリはトサカの色が濃いほうから、カカ、キキ、クク、ケケ、ココだという............。

「いや俺だって我慢してたのに、止める間もなかったんだて」

ミンギュに睨まれたホシが慌ててそう答えてた。

「ソーちゃんは、ここまで来るにも荷物をたくさん運んでくれた、きっと役立つよ、食べたりなんて絶対しないよ」

ドギョムが慌ててミンギュに言い訳してる間にも、バーノンもディノも、牛を撫でながら「ソーちゃんソーちゃん」と呼び始めていて、 スングァンもそっと触らせて貰った。

自分の牛じゃないのは判ってるけど、生き物がいる暮らしはなんだか、それだけでも平和な、恵まれた環境な感じがして、ちょっとだけ嬉しくなったから。

ニワトリだって5羽もいるから、卵をたくさん産むかもしれない。そうしたら1週間に1コぐらいは、スングァンにも卵を分けてくれるかもしれない。卵をハルモニに食べさせることができれば、そうしたらきっとハルモニだって冬を越せるはず。

最初に言いあったというよりは、一方的にスングァンが食って掛かったバーノンは、毎日のように畑にやって来る。最初にあったジュニヒョンは、1日に何度かやって来る。最初のスングァンとバーノンの出会いを見てたシュアヒョンは、1日の終わりには迎えにやって来る。

バーノンはいつだってそんなジョシュアに、「シュアヒョン、なんで終わり頃に来るの? もうちょっと早く来て、手伝ったっていいんだよ?」と言うけれど、「俺も色々忙しいんだって」ってジョシュアは笑うばかり。
時々手伝いに来て、そのたびに騒がしいディノは、「シュアヒョンは絶対手伝いたくないんだよ」と言っていたけれど、スングァンにはまだ、本当のことは判らない。だってジョシュアは優しそうに見えて、そして実際に優しかったから。

バーノンと出会った次の日、まだ畑の雑草を必死にとっていた時、ジョシュアが「そろそろご飯だよ。帰っといで」って迎えに来た。
当然バーノンは手を止めた。まだ夜でもなく、夕方になりはじめたばかりの時間帯。でも夜になると真っ暗になってしまうから、ご飯を食べる時間としては早すぎるってこともない。そんな時間。

スングァンはバーノンが去って行くとしても、気にしないようにしてその手を止めなかった。だって、ご飯だからと自分が呼ばれることなんて、家族でもないんだから当然ある訳がないんだから。

それなのにバーノンは立ち上がっただけでその場から動かなかったし、そんなバーノンのことをジョシュアも急かしたりしなかった。それどこかジョシュアはスングァンに、「畑を整えるの、絶対今日じゃないとダメとかじゃないんだろ?」って聞いてきた。
何を問われてるか本気で判ってなかったのに、ジョシュアが笑って「ご飯だよ」って言う。

「お、俺は、関係ないから」
「関係なくはないよ。引越し祝いの振る舞いご飯だよ。まぁそう言っても質素だけどね。それにハルモニの分も、持って帰ってくれないと」

その時はその言葉を信じて喜んだけど、あれはきっとわざとそう言ってくれたんだと、今なら判る。
分けてもらったご飯にお礼を言って、家に持って帰ってハルモニと2人で食べた。
でもコッソリと、残しておけるものを取っておいた。ハルモニはもう大分前から小食だったから。
でも持たせられるのは翌日が限界で。これが冬だったら、もっともっと長く取って置けるのに......。

そんなことを思ってたのに、翌日にもちゃんと、スングァンとハルモニの分のご飯があった。それも盛大に。
ジュニヒョンが、松葉杖にしてたはずの木の棒に、山で仕留めた猪を縛り付けて帰って来たから。いつのまにか山に行っていたのかって驚いていたら、「山に籠ってたのはハオだよ。俺は呼ばれて迎えに行っただけだから」って笑ってた。
ジュンと一緒に猪を担いで帰ってきたディエイトは、「ミンギュは? あいつなら捌けるだろ」って言うだけで、手に入れた獲物の取り分を口にすることもなかった。

「焼くし煮る。だから水と火が大量に必要だよこりゃ」

ミンギュがそう言えば、ジュンもディエイトも、当然のように水を汲みに行った。ディノとドギョムは薪を集めてきて、火をつける準備をする。
誰かが何かを指示した訳でもないのに、それぞれが当然のように自分のできることをする。

でもスングァンは何もできなくて、自分がそこに勝手に参加できる訳もなくて動けなかった。その時も笑って「まだこの村には人が残ってるだろ?」って声をかけてくれたのはジョシュアだった。

「食べに来るか、取りに来るか。みんなに声をかけに行くから、付き合って。見慣れない俺が行っても不審がられるだけだから」

全然それは不自然でもなくて、スングァンが回った方が、皆、出てきてくれるだろう。
だからスングァンはちょっとだけ張り切って歩いた。

「ゆっくり行こう。どうせ料理が出来るまでには時間がかかるだろうから」

ジョシュアがそう言えば、後ろからついてきてたバーノンがボソリと、「シュアヒョンそう言って、また何もしないつもりじゃん」って言ったけど、スングァンにはジョシュアのその言葉は自分の足を気づかってのことだとしか思えなかった。

一緒に食事をすることが、一緒に働くことが、一緒に何かを分け合うことが、いつだってスングァンには少しだけ負担だった。それをいつでも、自然に、後から考えたら判るけど、いつだって気負わずに受け止められるようにしてくれるのが、スングァンにとってのジョシュアだった。

そんな一番ヒョンなジョシュアのような存在が、まだ後2人もいて、弟のように拗ねて見せて甘えてくれて「なんで? 俺とは一緒に食べてくれないとか言わないだろ?」ってムキになるエスクプスがいて、いつだって楽しそうに笑ってて天使みたいなのにズルぱっかりしながらも、最終的には勝たせてくれるジョンハンがいるなんて、まだその頃のスングァンは知らなかった。

だってまだまだ、いつかはきっといなくなってしまう人たちだって、本気で思ってたから。ずっとずっと、それこそスングァンと一緒にいることだけは絶対だって思ってる人たちだとは、当然ながらスングァンは知らなかったから............。

ニワトリ小屋は、すぐにできたのに。
作りが甘かったのか、それともうっかりが過ぎたのか、一番支柱となる部分に転びそうになったキムミンギュがぶつかって、一瞬でニワトリ小屋を破壊してた。

「なにやってんだよキムミンギュッ」
「あぁ、お前はまた」
「ヒョンッ!」

ニワトリが逃げそうだったからスングァンだって慌てたけど、そんな賑やかさの中にはまだ入れないでいた。でも不思議とディノとはなんでも言いあえて、会ったその日から馬が合うのか合わないのか、よく判らない関係だった。

でもバーノンとは気まずいままだった。毎日一緒にいるのに。
スングァンの中にある遠慮がそうしているんだと思ってたけど、そうじゃないことに気づいたのはスングァンの方が先だったかもしれない。
だってバーノンだけが、スングァンの名前を呼ばなかったから。
いつの間にか近づいてきて、「アンニョン」とかは言ってくれるのに、名前だけは呼ばなかったから。

 

 

「ウジとホシが出てった。一度は戻るって言ってたけど」

ジュンがそう言ったのは、「自分たちはどうする?」って意味を込めてだった。でもディエイトは、「そっか。ヒョンたちは何か、獲って来るかな?」って笑ってた。
ディエイトは早い段階から山の中、奥深くまで見回って、ある程度当たりをつけていたらしい。
木の根が頻繁に齧られている場所を見つけたと言って、先を尖らせた槍のような武器とナイフ一本で山に入って行ったから。

「仕留めたら指笛鳴らすから、迎えにきて」

木の上にでも登るのか、それとも茂みにでも隠れ続けるつもりなのか。仕留めるまでは帰ってこない。そんな決意すら感じた。
それはきっと、ジョシュアとミンギュの話し合うのを聞いてしまったからだろう。

最初は引っ越し祝いだとか振る舞い酒みたいな感じで食料は提供できるだろうけど、連日は受け取ってくれないかもしれない。まだ俺らは、スングァンにとっては仲間じゃないから。

助けたいのに、差し伸べた手は当然のように振り払われる。
いやでも逆にそれぐらいの警戒心がなければ生きてこれなかっただろう。

それを聞いたからこそディエイトは、絶対に何か獲って来ると言って出ていった。
そんなディエイトに、ジュンは『無理するな』とも、『頑張れ』とも言わず、ただ「いってら~」って軽く見送った。

他の人間なら無理だってって言うようなことでも、ディエイトならやり遂げることを知っているから。
戻ってきてはじめて「スングァニが見つからなかった」って聞いて、胸が締め付けられた。それからスングァンが見つかるまでの間は、これまでスングァンの不在を耐え続けたみんなの時間を考えれば、ほんの僅かだっただろう。

それでも打ちのめされて、戦争ってものの悲惨さを一番知ってるはずなのに、戻れば全員に会えるとただただ信じてた自分たちがバカみたいで。でもどんな時だって、みんなは幸せに暮らしてる。そう信じていたからこそ、乗り越えてこれたあれやこれやがあったのも事実だった。
きっとディエイトは考えて、今自分にできることをしようと思ったんだろう。もう一緒に長くいすぎて、大抵ことは判ってしまう。でもそうじゃないと生き残ってこれなかっただろう。
きっと戻ってきたら川にでも行くはず。
それからもっと楽に狩りができるように仕掛けを作りはじめるはず。自分ならそうするから。

冬に自分たちの食糧確保が難しいと判断すれば、離脱することを選ぶだろう。
そうすればウジとホシのように、一定期間身売りでもして稼ぐのも良い。期間が短い上、土地勘がない分危険で荒い仕事になるかもしれないけれど、今までの暮らしを思えば、なんてことはない。きっと。

「できれば冬はここにいて、気候の良い時期だけ外で活動したいんだけどな」

誰もいないからそれは独り言だったけど、本心でもあったかもしれない。
当然のようにおかえりと迎えて貰ったから、気が緩んでしまったのかも。甘くなったのかも。

いつだて冷静に物事を見てるウジが、「俺たちは出るけど、お前たちはここにいろよ」と言ってくれたことも、気持ちが緩んだ原因かもしれない。

辛かったけど、それほどじゃなかった。
苦しかったけど、耐えられないほどじゃなかった。
色々諦めてきたけど、絶望したりはしなかった。

それなのに油断すると泣きそうになる。
今はもうただただ幸せで、これかは笑って暮らすだけなのに。1人で鄙びた田舎道を歩いてる間も、知らぬ間に泣けてきて涙が止まらなくなりそうだった。

一度は諦めたからかもしれない。
何年かぶりにディノを見たあの夜、すべてを終わらせるつもりだったのに生き残ってしまったから。

「ちょっと待って」

そこは戦場だというのに、本当に不意にディエイトが立ち止まった。
あちこちに火の手があがっていて、もう少ししたらあちこちで爆発だって起きる。まぁそれを手配したのは自分たちだったけど。
そんな中でディエイトが立ち止まって、振り返ったジュンと目があったのは数秒だったのに、ディエイトが「俺はチャニには会ってないけど?」って言った。

その数秒の間に、お互い何を考えただろう。
でも気づけばお互い笑ってた。

「じゃぁ駆け抜けてみようか」

ここで終わりにする覚悟があったんだから、一か八か、前線から駆け抜けてみればいい。自分たちの陣営に向けてじゃなくて、今は敵となったディノのいる陣営に向けて。そしてそれすら超えて、もう一度帰りたいと願った国に、家族のもとに。

賭けだったけど、闇雲に走った訳じゃない。
時に大胆に、時に冷静に、暗闇と閃光が走る中を2人で走り続けた。
もう2人分の荒い呼吸しか聞こえてこなくても足を止めなかった。景色が変わったって、空気が変わったって。

長いようであっという間だった。そして気づけば国境を超えていた。
久しぶりに話す言葉は、思った以上に身体に沁みついていて、別段、誰にも怪しまれなかった。それでも町を外れて、山の中や森の中ばかり歩いて、滝つぼにも飛び込んだ。

2人でいることに慣れていたから、13人はきっと多すぎるだろうって思ってたのに。
たった1人、スングァンがいないと聞いた時には、12人揃ったことの嬉しさよりも喪失感の方が大きかったのは、まだつい最近の出来事だった。
あの戦場の中でディノと会ったことも奇跡なら、あの戦場を駆け抜けたことも奇跡かもしれない。だから俺たちなら見つけられると思うと真剣に思ったし、この国の隅々まで、それこそ隈なく歩いて、すべての人に会っていけばいずれはスングァンを見つけられると思ってた。

すぐにドギョムがスングァンを見つけたけれど、それだって自分たちが戻って来たから動き始めたんだって、本気で思ってたし堂々とそう言ったし。
それに対してウォヌは真剣に頷いて「ありがとう」と言ったけれど、「いやそれなら俺らが戻って来たタイミングだろ」って言ったのはウジだったけど、「いやこれってクユが揃ったからじゃないの?」って必死に言ってたのはホシで、「そうかも......」って素直にまた頷いたウォヌがいた。

「そんな訳ないだろ」ってウジは冷静に言ってくれたけど、それを信じたいと思ってしまったジュンは、何も言えなかった。
揃えば無敵だと誰もが言ったクユズだったから......。

「ディノが俺たちのこと、幽霊かもって」

エスクプスとジョンハンに連れられて帰って来たディノは物凄く驚いていて、ジュンとディエイトのことを本気で幽霊かもしれないと思ってた。
それを聞いて「あぁ、そっか。俺たち死んだのかも」って思ったのはジュンの方で、だからディエイトにも「ディノが俺たちのこと、幽霊かもって」って言ったっていうのに、ディエイトはそれを認めなかった。

あの戦場を駆け抜けたつもりで、魂だけが帰って来たのかもしれない。
それを信じかけたのに「そんな訳ないじゃん。それなら滝つぼに落ちたってケガなんてしないし」ってディエイトが冷静に言って、それもまた「なるほど」ってなったジュンだった。

ディエイトは相変わらず強いけど、最初から強かった訳じゃない。
何度も離れ離れになって、その手が離れてしまったことに怯えた夜だってあった。
会えなくなった時の待ち合わせ場所をいつだって決めて、その場で待ち続ける時の恐怖は、きっといつまでも忘れないし慣れるもんじゃないだろう。
でも自分たちがより苦労したとか、辛かったとか、不思議とほんとにそんなことは思わなかった。
やっぱりそれは、ディエイトがいたからだろう。

きっと誰も気づかないだろうけど、ジュンだけが気づく、ディエイトの指笛が聞こえた。
案外早かった。
思わずニヤリとして山に向かって歩き出す。
でもディエイトと合流して、目の前に横たわる猪のデカさに言葉を失ったジュンだった。

 

 

「ウジやッ」って、ジョンハンの声がして。
その直後に「ジフナッ」ってエスクプスの声もして。

「あ、バレたんじゃね?」って横でホシが言うから、「だな」って笑って答えたウジだった。

エスクプスとは長い付き合いで、それこそもう本当の兄と弟のよう。あぁでもそれを言ってしまえば全員もう家族で、色んなことに気づいてくれるのはいつだってジョンハンだった。

「でもさ。なんで俺の名前だけ呼ばれんの? お前だって一緒に行くのに」ってウジが言えば、「そんなの、お前が考えたのが丸わかりだからに決まってんじゃん」って楽しそうに笑って答えたホシだった。

13人いる。それだけで嬉しくて嬉しくて。ジュンやディエイトや、ジョシュアやバーノンや、エスクプスやジョンハンや、それからスングァンに。
見てるだけで、動きは止まってしまう。声を聴くだけで、目を閉じてしまう。
もう必要ないのに、ウジの頭の中では全員の声がして、音が流れて、歌いだしは誰だって考えてしまう。

それから思わず、ホシを見る。
思い浮かんだ色や形や匂いやフレーズを、伝えたくなる。伝えばいつだってホシは騒ぎ出しそうに見えるけど黙ってストレッチをはじめる。
スタジオの片隅で、鏡の前で自分と対峙する。

「お前にできるのかクォンスニョン。ジフニの期待を超えられるのか、クォンスニョン」

そう言いながら、ストレッチが終われば腕を動かして、足を動かして、肩を、頭を、指を、足首を。何時間でもそうやって、ウジの期待を超えるものを差し出してくれるホシだった。

「ん? なに? 俺の顔がカッコいいから見つめてんの?」

あまりにジッと見てるからかホシがそんなことを言うのに、「いや、見飽きてきたなって思ってただけ」とか酷いことをわざと口にして、ホシを涙目にさせていたウジだった。

「どういうことだよ! 身売りってなんだよッ!」

ジョンハンが怒りながら近づいてくる。
参ったなって思うのは、ジョンハンが近づいてきた勢いを緩めずに、そのままウジのことを抱き締めるから。

どちらかといえば女性的な顔立ちで、見た目も柔らかそうなのに、抱き締められればウジを簡単に包み込んでしまう。その肩幅も腕の大きさも力強さもしっかりしていて、頼りがいだってある。

「ハニヒョン、髪......」
「髪なんてどうだっていい」

そう言って、やっぱりギューギュー抱きしめてくれるけど、きっとその髪が短くなった理由を知れば、どうせ自分たちのためのはず。

追いついてきたエスクプスも、「何を手に入れたんだ? 全部返しに行くぞ」って、当然のように言う。

最初に動物を連れて帰ってきた時、身売りの話を聞いてジョシュアはウジの手をしっかり持って、真正面から見つめてきて「納得できなかったら認めない」と言った。
95ラインのヒョンたちの愛情深さは、ウジのことを涙脆くもさせるけど、強くもさせる。最終的にはしぶしぶだったけど納得してくれたジョシュアは、それでも「クプスとハニが戻ってから行けよ」と言ったけど、相手先には戻ると約束した日があって、2人の帰還には間に合わないと思っていた。

2人に捕まらなければ面倒くさくなくていいと思ったり、引き止められたぐらいじゃ取り止めたりはしないけど、それを判ってても絶対に反対してくれるとも判っていたから、そんな2人の姿を見たいとも思っていた。
時々はウジだって、自分が愛されてること実感したいからと言えば、ホシが「俺がいるじゃん」と本気で言っていたけど、それはどうしたって違うもので。

愛し愛されるのとは違う。いつだってどこにいたって、自分達が失敗したって間違ったって、絶対に愛し続けてくれていると無条件に信じられる存在。いや、信じてすらなくて、ただただ、愛されてると判ってる。それは、知ってたけど、失って改めて気づいた両親から愛情のように。今やそれ以上に、愛してくれているヒョンたちの存在は、ウジのことをどれだけ支えてくれているか。

「お前が、 滅多なことでは判断ミスなんてしないことは知ってる」

ジョンハンが言う。
その言葉だけで、ウジには十分だった。
ホシがそばにいる。それだけでも十分なのに、どこにいたって愛情を注いでくれて、心配してくれて、いざとなったら駆けつけてくれるヒョンたちがいると思えるだけで、ウジは前に進めるから。

「でも、俺たちにお前を守らせてくれよ」

今度はエスクプスが言う。
だからウジは抱きしめてくれてるジョンハンにギュッとしがみつきながらも、エスクプスにだって手を伸ばす。
でも油断したら泣きそうだからしがみつくだけだったウジの代わりに「俺らはいつだってヒョンたちに守ってもらってるよ」とホシが答えた。

「それに、絶対に今、必要なものだよ。スングァニも一緒に世話をしたら、辛い気持ちになることもなく卵を貰ってくれるだろうし」

きっとそんなこと気にしなくても、あっという間に仲良くなって、助けて助けられてが当たり前になっていくだろう。でもそれまでの間、数日なのか、数週間なのか、数ヶ月なのか。目の前にいるのに手を差し出しても受け取ってもらえずに耐えるなんて、それこそ耐えられなかった。
いざとなったら食べることができて、暮らしていくのにも役に立つ、それに生き物は存在そのものが癒しにもなるはず。自然の中なのに食糧事情は豊かとは言い切れないこの場所には、自分たちがいることよりもよっぽど役に立つだろう。

スングァンが生きていて、その側にはヒョンたちがいて、ウォヌにミンギュにバーノンまでいれば、心配はないはずだから。

「それに俺ら、見知らぬ所に行く訳じゃないよ。最初にウジと一緒に釜山まで向かった時も、世話になったんだよ。泊めて貰ってる間、できることをしただけなのに、その時も食糧を持たせてくれたし、またいつでも立ち寄ればいいって言ってくれてさ」

それはきっと、ホシとウジが無心に働いたからだろう。感謝を忘れずに、仕事を選んだりせずに、求められたもの以上の成果を当然のように差し出して。だからって驕り高ぶる訳でも当然なくて。
2人はお世話になったんだからと言うだろうが、真面目にそれができる人間は案外少ないことを、エスクプスやジョンハンは軍隊暮らしで知った。
誤魔化すことや逃げることや手を抜くことを、無意識にしてしまう人間が多いことを。そして人間は弱い生き物だから、自分を律し続けることが難しいってことを。

「明日、俺らここを出るよ」

ずっと抱きついてたウジが、スッキリした顔でそう行った。

「戻ってくる時には、ちゃんと乳が出る牛を連れてくるよ」

そうも言った。
エスクプスとジョンハンが言えたことなんて、本格的な冬がはじまる前に必ず一度訪ねて行くからと、場所を訪ねるぐらいだった。

「ミンギュにもう伝えてある。万が一にも冬を越えるのが難しそうなら、ディノを寄越せとも伝えといた。それから、ジュニには冬になったら氷を作れって言ってるから、手伝ってやって」

本当なら別れの前に、もっと話したいことはあったはず。でも伝えておきたいとウジの口から出るのは、この村で暮らしていくのに必要と思われるスキルや今後の展望で。

「俺ら口だけで、全部それを押し付けていくだけで悪いんだけど」

ウジがそう言えば、「ミンギュが全部うまくやるだろ」って、ジョンハンが悪い笑顔を見せてくれた。エスクプスも一緒になって「俺らは全体を見渡して、指示する方にまわるもんな」と笑ってた。

次の日、ウジとホシは早朝に村を出た。
別にコッソリと行こうと思ってた訳じゃないけど、これが最後って訳でもないから。見送られるのは、ちょっとだけ辛いかもしれないから。
それでもミンギュはもう起きていて、2人に腹の足しにもならないかもって言いながらも非常食みたいな固いパンを渡してくれた。
それに当然のようにエスクプスとジョンハンが見送ってくれた。

「軍隊生活が長くなったから、朝は早く目覚めるんだよ」

そう言って笑ってたけど、「もう朝は目が覚めちゃう年なだけじゃないの?」ってホシが言えば、「お前らと1つしか違わないだろッ」ってエスクプスがムキになって怒ってたけど............。

寒くなる前には絶対一度、様子を見に行くからとジョンハンはまた手をあげながら言ったけど、結局それは叶わなかった。
冬までも、ハルモニはもたなかったから。
スングァンが一人きりにならないことにホッとしていたからかもしれない。

ウジとホシのところを訪ねてくれたドギョムがそう教えてくれた。


 

その日もスングァンは畑にいた。
エスクプスとジョンハンが手に入れてくれた種や苗は少しずつ育ってきていて、きっと冬が本格的に来るまでには一度、大きくはなくても収穫できるはずだった。きっと次には土が良くなってるはずだから、2回目以降の収穫ではもっと大きく育つはず。
水汲みは、バーノンが当然のように助けてくれて、畑の近くに水を貯めておける場所も、来年には作ろうと言ってくれたのは、なんでも器用に作ってしまうミンギュで、毎朝、スングァンが必ずするのは卵を集めて来ることだった。
それを、エスクプスとジョンハンと一緒に戻ってきたオモニに渡す。誰の母親かは知らないけれどみんながそう呼ぶから、スングァンもそれに倣ってそう呼んだ。
ハルモニは寝て過ごすことが多くなったけど、オモニのお陰で、ハルモニは柔らかい、喉通りの良いものが食べられているし、スングァンが畑に出ている間も、何度も様子を見てくれるからスングァンは安心して働けた。
ハルモニが長く起きていられる日には、オモニはハルモニの側に座って、長く何かを話していた。
どんな話題かは判らないけど、2人して泣いてたり、笑ってたり、それから両手を握り合ったり。

だからその日も、すぐにスングァンのもとにその情報は届いたんだろう。ハルモニとの2人暮らしのままだったら、1日働いて、力尽きかけながら帰ってきたスングァン自身が、逝ってしまったハルモニを見つけたはずだから。

最後は1人じゃなかったと、後から知って感謝した。そう思えたのは、まだまだ、ずっと、後のことだったけど。

「スングァナッ! スングァナッ!」

畑にいても、ディノが叫んでるのはすぐに判った。走って来ながらも、ディノはそう叫んでた。
はじめてその名前で呼ばれた時は、「なんで俺のこと、そうやって呼ぶの?」って驚いて聞いたほど。でもディノは、「ごめん。俺のヒョンに似てて、つい、出ちゃったんだよ」って言ってたから気にしなかったのに、それからもディノの慌てることがあったり、笑ってる時にも勢いでその名前で呼んだ。

少しだけディノに慣れてくればイラっともしたけれど、それでも「ごめん。でも、大切な名前なんだ。だから............」ってディノが悲し気に言うから、「別にいいけど。大切なら、その名前の持ち主が嫌がるだろ。これだけ間違えたら」って言えば、「大丈夫。絶対大丈夫」ってディノは言ってたから、懐は深いヤツなのかもしれない。

必死にディノが叫びながら近づいてくる。
何をそんなに必死になってるのかなんて知らないけど、「また俺のこと、そう呼ぶ」ってちょっとだけ膨れていた程度だったのに、「ハルモニが............」って近づいてきたディノが言うから。

走れもしないのに、必死に走った。
途中、二度ほど転んだ。
膝は確実に擦りむいたし、つんのめった時に腕をついて血が滲んでもいたけど、気になんてしてる場合じゃなかった。

家の扉は開かれていて、中に誰がいたかなんて覚えてもいなかった。
ただ、いつものように寝てるハルモニが、ピクリとも動かなかっただけ。
まだ少し残る体温が、少しずつ去って行こうとしていただけ。

「ダメだよ。ハルモニ、俺を置いていかないで。まだダメだよ。起きて、起きてよねぇ。俺、1人じゃ生きていけないよ。俺無理だよ」

そう言えば、戻ってきてくれると本気で思ってた。
でも擦っても揺すっても、ハルモニはもう動かなくて、スングァンの好きだった働き者のしわしわの手は、もう二度と動かなかった。

「1人じゃ、1人じゃ生きていけないのに......」

そこには、どんどん体温を失っていくハルモニと、ハルモニに縋りつくスングァンしかいない世界だった。
本当は近くにはオモニも、ジョンハンやエスクプスや、一緒に畑から走ってきたバーノンだっていたけれど、スングァンは気づけなかった。

慟哭して、でもふとハルモニの鼓動を感じたような気がしてハルモニが戻ってきてくれたと喜んで、でも青白くなっていくハルモニを前にまだ1人にしないでくれと泣いて。
きっと ジョンハンがスングァンのこと抱きしめなきゃ、スングァンはそのまま、ハルモニが朽ち始めてもなおその場に座り続けたかもしれない。

「俺たちがいるだろ。お前は1人なんかじゃない。絶対、1人なんかにしない」

それは優しさで、愛情でもあって、スングァンの心を守るための言葉でもあったはずなのに、1人残されることへの悲しみや恐ろしさは果てしなくて。

「家族じゃないのに」

その呟きは、スングァンの本心だった。
最初に畑でバーノンに怒鳴ったあの日以来、楽しくて笑うことだってもちろんあったけど、それでも心のどこかで気を使ってた気がする。だって今はまだ、居なくなられては困るから。ハルモニと2人で冬を越えるのはどうしたって無理だったから。愛想笑いをしたつもりはないけれど、それでも本心から手放しで笑えていたかと言われれば、そうじゃなかった。

「あの人たちを、頼ったらいい。絶対お前を裏切ったりしないから」

ある日突然現れたのに、ハルモニはそう言っていた。頼りになる人たちが来てくれたと喜んで、子どもでもないのに「仲良くするんだよ」とも言っていた。
でもきっとハルモニだって、2人では生き延びることが難しいと判っていたからだったはず。

「家族でもないのにッ」

抱き締めてくれていたジョンハンの腕を振り払ってそう叫んだのは、もう、何もかも終わりだと思っていたから。
その場にいたオモニも含めた全員が泣いていた。

でもスングァンは気づいてなかった。みんなが泣いてる本当の理由を。もちろんハルモニの死も悼んでくれていただろうが、それ以上にスングァンが1人にしないでと慟哭する度に、皆が辛そうだったことなんて。

間に合ったのか、間に合わなかったのか。きっと誰もがそれを考えていたはず。

「お花を持って来たよ」

そう言って、誰も何も言えなくなってた空間に、普通に入ってきたのはジョシュアだった。

「きっと、一緒にいられるのは3日が限度だよ。できればハルモニだって、キレイな姿だけを覚えてて欲しいはずだし」

野に咲く花は、キレイな黄色の花だった。それをスングァンの手に持たせてくれながら、ジョシュアが淡々と口にしたのは、ジョシュアがオンマと別れた時のはなしだった。

それは1日目から、オンマを土に還した7日目までの、ジョシュアしか知らなかったはなし。

「俺はオンマをちゃんと見送ってあげられなくて、後悔してるんだよ」

そう言ったジョシュアは、さらりと、「あの時、心の中にバーノンがいることが引っかかってなかったら、きっと俺だって一緒に逝ってたと思う」とも言った。

「俺にも、オンマは最後の家族だったんだよ」

スングァンにジョシュアの言葉がどこまで届いていたかは正直判らない。
いつまでも泣いていたし、水を差し出しても、当然食べ物も、スングァンは受け付けなかったから。
同じようにバーノンも何も受け付けずに、ただ黙ってスングァンのことを後ろから見てた。きっと、スングァンも儚くなってしまうんじゃないかと、怖かったからだろう。

2日目も、スングァンはハルモニの側に居続けた。
時々慟哭して、時々放心して、時々は意識を失うようにしてハルモニの横で眠って。

「きっともう、魂は空へと還ってったはず。空の上では家族に会えてるよ。明日には、ハルモニの身体も土に還してあげよう」

ジョシュアだけが当然のようにそう言って、スングァンが首を振り続けるを繰り返してた。

「死んだらどこに埋めて欲しいとか、ハルモニは言ってなかった?」

そう聞けば、答えなかったけどスングァンは何かを思い出したようだったから、何かは聞いていたんだろう。
ジョシュアの言葉に、哀しいばかりだったのに、スングァンの心は少しずつ現実に引き戻されていった。

ハルモニはスングァンが困らないようにと、自分の死装束だって準備してた。埋葬場所は、空に近く、でもスングァンが時々来れるような場所が良いとも言っていた。雑草でもいいから、花を植えて欲しいとも。本当は鳥が来て鳴いてくれるはずだから梅の木も欲しいとか言い出して、それはまだまだハルモニが元気だった頃のはなしだったから、「希望多すぎない?」と2人で笑ったんだった。

死装束だって、ハルモニは派手なのにしようかとか言って、本当に派手なピンクの韓服を用意した。
自分が嫁に来た時よりも派手だと笑って、死化粧は頼んだって言われて、その時は「俺がすっごく綺麗にしてあげるよ」って言ったんだった。

若い人たち先に逝くのは哀しいけどね。長く生きた年寄りが逝く時は、お疲れ様って言って、たくさん笑ったはなしを思い出して、見送るもんなんだよ」

そんなハルモニの言葉にも頷いたけど、「でも、長生きしてくれなきゃ嫌だよ」とも言ったはず。
1人は嫌だったから。1人ではやっぱり、生きてはいけそうになかったから。

それでもスングァンは立ち上がった。
ハルモニを置いて、2日目にして漸く家を出た。
家の外には、バーノンがいて、スングァンと同じかそれ以上に死にそうな顔をしてた。

「なんでお前がそんな顔してるんだよ」

声を出すのさえ、無理かもしれないと思ってたのに、普通に声が出た。
顔を洗って、トイレをすませて、水を飲んで。
毎朝ニワトリたちを見てたからちょっとだけ心配だったけど、ハルモニのための卵はもう必要なくて、泣き疲れた目に、空の青さは痛かった。

「一緒にいたい」

そのまままた家に入ろうとすれば、後ろからそう声がかけられた。
もうどんな言葉もスングァンの心を素通りしていくような気がしてたのに、その言葉はなんでか、スングァンの心に届いてちょっとだけ沁みた。
でもスングァンの口は開かなかった。ただ振り返って、そう言ったバーノンを視線の中に捉えただけだった。

見渡しのいい場所に穴を掘ってくれたのは誰だったのかすら覚えてない。ハルモニをそこまで運んでくれた人だっていたはずなのに、何もできなかったスングァンの代わりに土を戻していった誰かだっていて、花を飾ってくれた人がいて、いつか木を植えようと言ってくれた人だっていたのに。

スングァンはただただ、その穴に一緒に入りたかった。一緒に埋めてほしかった。
何度も「お前は1人じゃない。絶対1人にはしない」って言ってくれたは誰だったのか。

「離れない」

スングァンが泣いて暮らす横で、そう言って、本当にずっと一緒にいてくれた人もいたのに、スングァンは何も感じられなくて、気づけなくて、寂しくて、辛くて、もう、耐えられそうにもなくて。

「会いたいな............」

もう誰に会いたいのかも判らないのに、そう呟いた自分の声は聞こえた。
早く起きても意味はないのに、長く続いた習慣はスングァンを目覚めさせる。でももう、卵を集める必要もなくて、水を汲むこともなくて、畑はしばらく見てもいない。
ボロボロの家が朽ちていくのと一緒に、自分も消えてしまいたいけれど、そんなに時はかけたくなかった。

 

 

トボトボと、スングァンが歩く。その後ろを、バーノンが歩く。その後ろをディノが歩く。そのまた後ろにはジョンハンとジョシュアが歩いてた。

家とハルモニが眠る場所の往復ぐらいしかしてなかったスングァンが、突如歩き出した。最初に気づいたのは、いつだってスングァンの側にいたバーノンで、朝早くから2人に変わって水汲みをして畑に通う毎日を送ってたディノが次に気づいて、皆に知らせに走った。
話を聞いてジョンハンやジョシュアが慌てたかというと、そうでもない。

「ミンギュや。なんか簡単に食べられるもの作って」

ジョンハンがそう言えば、ジョシュアだってエスクプスとジュンに向かって、「後からおいでよ」って言う。
スングァンの足では、どんなに早く歩いたってどこまでもは行けないだろうから。

「簡単に雨風避けられるものを持って追いかけるわ」

エスクプスがそう言いながら、家を出ていく。きっと向かう先はオモニのところだろう。ジュンも「ハオに一声かけてくる」と出ていく。
水を汲んで行くというジョシュアと一緒に、大分後から追いかけたけど、やっぱり予想通りすぐに追いついた。

どうすれば癒されるのか、長く生きたって答えなんてないことはもう判ってる。みんな家族を失い、スングァンを失い、心の中のどこかがぽっかりと空いてしまった状態で生きてきたから。
哀しみがなくならないことも知ってる。時が過ぎれば薄まっていくのかもしれないけれど、それにはどれぐらいの時が必要なのかも判らないぐらい、哀しみはまだ、心の中に居座っている。
それでも自分たちには、もう家族としか言いようのない仲間がいたから。
離れてても会えなくても、どこかで支えあっていた。だからやって来れた。
今はもうスングァンを取り戻して、13人が近くにいる。
でもそれを、スングァンだけが知らない。

歩き続けたスングァンが、疲れたのか何もない場所で膝をつく。バーノンはただついて行くことしかできなかったけど、「休憩する?」って笑いながらその場にさっさと敷物を広げて休める場所を作ったのはジョシュアで、ジョンハンだって当然のようにそこに座り、追いついてきたミンギュが弁当を広げだす。

「外で食べると、美味く感じるのって不思議だよな」

そう言いながら、ミンギュはスングァンの手に、そのまま食べられるものを握らせる。のんびり追いかけてきたジュンが「これって朝飯?」って笑いながらも、食べ物に手を伸ばす。

「俺が作ったから、美味いよ。ほら」

ミンギュが言えば、スングァンは手の中のそれをじっと見るだけ。美味い美味いと誰かが食べるのもまた、見てただけ。
なんでついて来たんだとか、なんで一緒に食べなきゃいけないんだとか。そんなことすら、思いつきもしてないようだった。

「ボノナ。ほら、お前も座れって」

ジョシュアがバーノンを呼ぶ。スングァンに影響されすぎたのか、バーノンもまた上手く動けなくなっていたから。
のんびりしてたら、「俺の分も飯ある?」ってエスクプスがやって来る。その手にはなんでか鍋があって、「ほら、オモニがおかずを持たせてくれた」と言うから覗き込んでみれば、菜っ葉と少しの肉を煮込んだ煮物が入ってた。

「あ、俺、もう行くわ。ミョンホと釣りに行く約束してたから」

そう言ってミンギュが「またな」っていなくなる。
結局エスクプスは鍋をもって来てしまったために、持ってくるはずだったあれやこれやは持ってこれなかったんだろう。食べ終わったら、「出直してくるわ」と戻って行く。スングァンの表情は乏しく、持たされたそれを口に運ぶこともしなかった。

今はまだ何も響かなくても、いつか、少しずつ沁みていけばいい。
絶対に離れないし、1人になんて、絶対にしないから。

「食べないのかよ」

あぁでも、ずっと黙ってたディノが耐えきれなくなったのか、食べ物を持つだけだったスングァンのその腕を掴んで、口元へと押し付ける。

「チャナッ」

ジョシュアが止める。だけどディノは悔しそうに「でもッ」って言いかけたけど、ジョシュアが首を振ってそれを諫めた。

「まぁでも、そのまま食べたらいいよ。美味いから」

顔についた汚れを拭ってやりながらも、ジョンハンが言う。スングァンはそれでも動かなかったけど、時間がかかることなんて気にしなかった。時間はたくさんあるから、この先ずっと一緒にいるんだから。

「どうした? イライラしてるなら、お前はウォヌのとこでも行っておいで」

ジョシュアにそう言われて、ディノは素直に立ち上がった。どう見ても、スングァンがそのままどこかに行ってしまいそうには見えなかったからだろう。
生きる気力を失って何もしなくなったスングァンと、見守るのに必死なバーノンをよそに、畑を守ってるのはウォヌだった。
ウォヌの動きも緩慢だったけど、畑で土を触って暮らすのはウォヌにも良かったのか。最近は朝から晩まで畑にいて何かを育ててる。
だからもう少ししてスングァンが落ち着いたら、一緒に畑を守っていけるかもしれない。

「美味しい」

大分時間が経ってから、スングァンが言った。ディノによって無理やり口の中に入れられたそれらが、やっとスングァンの味覚を刺激したのか。「これ美味しい」って言うスングァンは、そう言いながら泣き出した。

「今度、ハルモニのところにも、お弁当を持って行こう」

ジョシュアがそう言えば、スングァンは頷いた。
美味しいものを食べたら食べさせてあげたかったと思うから。美しい景色を見れば、見せたかったと思うから。
でもそれは普通で、当たり前のことで、きっと生き続けるならば何度も訪れるはずで。
痛みも苦しみも多いけれど、少しずつそれが凪いでいくこともジョシュアは知っているから、スングァンを見守っている。

ジョンハンもだから、スングァンの横で普通に暮らすことにした。
絶対に離れない。それだけを決めて。

でも弟はスングァンだけじゃないから。今もディノが、離れて行きながらも振り向き振り向きこっちを気にしてる。
本当なら一度、ホシとウジが働く場所も見に行きたかったし、ドギョムが働いているところも見て見たかった。ジュンとミョンホともじっくり話したかったけど、2人が飄々と生きているのを良いことに、まだその時間も取れてなかった。

「でも俺たち、揃ってるから。きっと大丈夫」

のほほんと笑ってジョシュアがそう言うから、ジョンハンだってそんな気がする。
力尽きるまで身体を酷使しないと眠れなかったエスクプスは、最近は寝過ごしたって言いながら起きてくることも増えた。

まだ本当の意味ではスングァンのことを取り戻せてはいなかったけど、13人いることの強さを感じてる。
スングァンが力尽きたように座ってたから、のんびりとしていた。
エスクプスがその後、簡単なテントを取りに戻って、それを組んで見せてもくれた。
風が強くなければ雨だって凌げて、陽の光なら十分防げそうだった。
もう日焼けなんて誰も気にしてないけど、それでも、きっとすべてを思い出せば、傷だらけの自分の手足を見てスングァンは悲しくなるだろうから。

もう力尽きて歩けないスングァンに、「帰ろう」って言うのは大抵ジョシュアで、また一緒にとぼとぼと歩いて帰る。バーノンはそれについて行き、ディノは自分がしてしまったことに謝ろうと思ったのか、戻ってきて立ち尽くしてる。
ミンギュとディエイトが大漁だったと戻ってくるところにも出くわして、夜には魚だなって言いながら帰る。
あの頃、誰も想像もしてなかった未来が今ここにある。いつまでもスポットライト下に居続けるのは無理だろうとは思ってた。それでもディノが兵役から帰ってくるまでは余裕でスポットライトの下で過ごせるだろうと思っていたのに。

でも13人いる。
失ったはずのスングァンを取り戻して、13人いる。
だからこれから、ゆっくり幸せになればいい。
誰にもそんな事は言わなかったけど、ジョンハンの横で寛ぐエスクプスも、弟たち見て幸せそうに微笑むジョシュアも、きっと同じ気持ちだろう。
間に合えばいい。心の中でそう願ってもいたけれど、ジョンハンは決して慌てることはしなかった。

 

 

スングァンを取り戻したのに、最初の冬は辛かった。
だからディノは、冬の間は実家に帰ろうかと思ったほど。でもあっちだって、生活が苦しいのは一緒だったから、ちょっと迷った。
でもジョシュアが「お前だって俺たちの大切な家族なんだよ」って言ってくれたから、冬の間も一緒にいることを選んだけど、スングァンを見てるのは辛かった。
見なきゃいい。そうディノに言ったのは、ウォヌだった。
見たくないものは見なくていい。
強いのか弱いのか、判らないようなその発言に、「でも俺、スングァニのこと、見てたいよ」って口にしてはじめて、自分の気持ちをちゃんと認識した。
今はもうディノぐらいしか、スングァンのことを堂々と本人に向かってスングァンと呼びかける人間はいなかった。
見知らぬ名前を呼ぶのは、どうしても納得できなかったから。
最初は怒ってたのに、ハルモニを失った後のスングァンは呼ばれてることも気づいてないのか、何も言わなかった。

「なんでお前、俺のこといつまでもその名前で呼ぶの?」

そうスングァンが言ったのは、雪も解けて、もうすぐ春が来るって頃だった。
毎朝早く起きて、スングァンが畑に立ち始めた頃。

「ごめん。つい、どうしても」
「俺はいいけど、その名前の本当の持ち主は、嫌だと思うけど」
「大丈夫。スングァニヒョンは、絶対怒ったりしないから」

2人だけの畑で、交わした会話はディノの中にしかない。
ケンカばかりしたのに、良い思い出しかない。きっと一生そばにいるんだろうなって思ったその人が、ディノのことを忘れて目の前にいる。
それでも構わなかった。自分が覚えてるだけでいい。かけてくれた言葉も、示してくれた愛情も、抱きしめてくれた強さも、その全部をディノは覚えてるから。

それでも誰よりも自分と深い縁があると思うのは、どの場面にも自分は立ち会ったから。
あれから、色んな病院を相変わらず渡り歩いてるドギョムは、必ず次の病院に向かう前には「ただいま」と戻ってくるようになった。
いつだって大分遠くから楽しそうな歌声が聞こえてくるからすぐに判る。
畑に水を撒きながら、無意識なのかスングァンがドギョムの歌声にハモって見せた。

「スングァナッ!!」

少しずつ全体に水を撒かなきゃいけなかったのに、その場に全部ぶちまけてしまった。

「ヤー!! 何やってんよお前はッ」

目の前ではスングァンが怒ってた。自分が懐かしい自分たちの歌を昔のままに歌ってたことなんて気づきもせずに。
その日から色んなことに期待したのに、スングァンはやっぱり何も思い出さなかった。

ジュンとディエイトは時折2人して消えるけど、いつの間にか戻ってきて、親切な小人のように仕事をこなしていく。薪が山のようにできていたり、山で獣を仕留めてきたり、ガタガタいってた扉がなおってたり。
スングァンは昔のままに、「ジュニヒョンッ」って、帰って来たその姿を見ると物凄く嬉しそうに笑う。走れないのに必死に駆けよって抱きしめる。

そんな姿を見て、「昔からジュニ贔屓だったもんな」って笑ってたのはウォヌだったけど、スングァンが畑に出るようなってみれば、話し合うのも1番長くいるのもウォヌだった。
畑への愛が強かったからかもしれない。
少し落ち着いてみればバーノンはスングァンにぴったりくっついてることはなくて、水を運んだり力仕事がなければ動物たちの世話をすることの方が多かった。

95ラインのヒョンたちは、冬になると川の一部を引き込んで、氷作りをはじめた。
最初は自分たちの食材を冷やしたり、久しぶりに冷たい飲み物を飲んだりって程度だったのに、その氷を売り始めた。
もちろん季節ものだし、遠い場所に運ぶのは無理だったけど、それでも食生活も畑に蒔く種も、各段に改善された。
96ラインのヒョンたちはやっぱり奇跡のようで、揃うことはなかなかなかった。
それはホシとウジが、2年経っても帰って来なかったから。動物たちは順調に増えたのに、それらを連れ帰って来たのはホシ1人で「俺ら、もう少し向こうで頑張るわ」って笑ってた。
当然のように怒ったジョンハンが、ホシについて行って2人の説得を試みたけど、ダメだったから。
でもディノも何度か2人に会いに行って手伝わされたけど、ホシとウジの2人は楽しそうに、でもしっかりと働いていた。

バーノンの妹から手紙が届いたのはそんな頃。ここに移り住んだ時にはバーノンが場所を知らせるための手紙を出していたけれど、それが無事に届いてたと知ったのは2年も経ってから。子どもが生まれたって書いてあったその手紙は、小さな奇跡を起こしてくれた。その場にはジョシュアとバーノンとディノと、スングァンだけがいた。

「妹に、子どもが生まれたって」

目を真っ赤にしながらバーノンがそう言えば、ジョシュアがそんなバーノンを抱きしめた。もう簡単には会えない場所にいる妹の幸せが嬉しかったからだろう。
でももっと驚かせたのは、スングァンが「ソフィアにッ?!」って言ったから。
普段は絶対呼ばないのに、バーノンが抱き締めてくれてたジョシュアの腕をふりほどいて「スングァナッ」って言いながらスングァンを抱きしめた。なのに自分が発した言葉を理解してないのか、「なんだよいきなり」ってスングァンが驚いている。

「スングァナ、今お前。ソフィアにって言った」

ジョシュアがそう言えば、「え、俺が?」ってスングァンが驚いている。
戻って来たんだと、思い出したんだとその時もディノは泣いたのに、結局スングァンは、自分の発した言葉もソフィアのことも、何も思い出さなかった。

「でも、スングァニの中には、ちょっと深い場所にあるだけで、ちゃんとあるんだよ。俺たちと一緒に過ごした色んなことが」

ディノがなかなか泣き止まなかったからか、ジョシュアがそう慰めてくれたけど、取り戻したと思っただけに悔しかった出来事だった。

ジュンやディエイトがあちこち動くついでにと、ウジやホシのところに寄ったり、ドギョムが働いてる場所に寄ったりするから、ディノも実家に寄りついでに一緒に動くようになり、そのついでに荷物を預かって運んでと、頼まれごとを引き受けてただけなのに、いつの間にか人伝てに荷物や人を運ぶことを頼まれるようになって、ディノはそれを仕事にするようになった。

もうディノだって大人だってのに、ヒョンたちは当然のように「あぶない仕事には手を出すなよ」と言ってくる。何も覚えてないスングァンでさえもが心配してくる。

「お前は肝心なところで鈍臭いから」

そう言うから、俺の何を知ってるんだよって言い返しそうになるけれど、スングァンの中にはきっと色んな自分との思いが眠ってるはずだった。
諦めた訳じゃないけど、いつの間にか諦めていたかもしれない。スングァンの名前を呼べずにもどかしい思いをする皆んなとは違って、ディノはヒョンと変わらずに口に出来たから。

「大丈夫。絶対思い出す。スングァニが1人で残される前に見つけられたんだから、今度だって絶対大丈夫。間に合うはず」

強がって、「スングァニが俺のことを思い出さなくたって、俺の中にちゃんと全部あるもん。だから俺は平気」ってディノが言った時、それを聞いてハニヒョンが間に合うはずって真剣な顔で言った。
何に間に合うのか............。尋ねようとしたけど、ハニヒョンの視線の先にはスングァンのオモニがいて、毎日のようにハルモニのお墓の前で祈ってた。
いつか全てを思い出した時に、母親を忘れていた自分と、もういない母親と、その母をオモニと呼んだ記憶と、もしもそんなものがスングァンを襲えば今度こそ立ち直れないかもしれない。今以上に傷ついてしまうはず。

「でも、まだまだ、オモニだって」

時間はあるはず。そう言いかけたのにハニヒョンは、「楽な暮らしじゃないからな。ここは」って言う。
ホシやウジのお蔭で暮らしは少しずつ楽になっていたけれど、それだって何もせずに暮らせる訳じゃない。水はいつだって冷たくて、水道から出てくる訳でもない。
苦労なんてなんでもない。生きていてくれただけで十分だとオモニは言うけれど。

もう大人なのに、それでも両親はディノのことを未だに可愛いと言う。きっとそれはディノがオジサンになっても変わらないはず。同じようにスングァンもオモニにとってはいつまでも可愛いでしかないはずなのに、毎日卵を届ける時に言葉を交わすぐらいではきっと、幸せにはほど遠いだろう。
オモニにとっても、スングァンにとっても。

「間に合うよ。きっと間に合う」

ディノはそう言った。なんの根拠もなかったけど。ハニヒョンはディノの言葉に、「そうだな」って言っただけだった。
ユンジョンハンの髪はまた伸びて、季節は春だった気がする。
ホシとウジはやっぱり帰ってこないのに、ニワトリはもう小屋を立て直さなきゃいけないぐらい増えていた。懲りずにドギョムがニワトリたちに名前をつけるけど、それだってもうどの子が誰だか誰も判らないかというと、謎にウォヌだけは全員の名前を憶えてたけど............。

「どれぐらいの大きさのを造ればいいんだ?」

そう言いながらニワトリ小屋の前にいたのはエスクプスで、次はもっと大きな小屋を造ると言うミンギュと一緒に大きさを測ってた。朝からディノとスングァンとバーノンは3人でニワトリたちを別の場所に移動させていて、後は残った卵を拾い集めるためにスングァンがニワトリ小屋の中に入ってた。

「今日は測るだけだろ? どうせ一日じゃ無理なんだろ?」

なんでかもう疲れたのかエスクプスが、はじめてもないのに今日はもうこれぐらいにしておこう的なことを言いだして、「ヒョン、何も手伝う気ないじゃん」とミンギュに文句を言われてた。

「大分傷んできてるし、早めに造りなおす予定だけど」

そう言いながらもミンギュが一番太い柱を触ってた。
そこにちょうどウォヌとジョンハンが「木とか運ぶなら手伝うけど」とやって来て、ディノは「でも場所は? 同じ場所に造るなら先にここのを潰さないとダメなんじゃない?」って言った。
スングァンはまだニワトリ小屋の中にいて、「わぁ、ここにもあるじゃん。みんなありがとね~」とか、ニワトリにお礼を言いながらも卵を拾い集めてた。
ニワトリ小屋の中にいたスングァン以外の、全員の視線がミンギュに向いていた。
なんでも器用にこなすヒョンで、相談ごとをすればいつだって前向きな言葉を返してくれて、今でもエスクプスはミンギュがいれば俺たちは絶対大丈夫だと本気で言うし、その言葉には全員が頷くほどなのに。
なんでか誰もしないような失敗もするヒョンで、持ってた鍋を落とすとかじゃなくて、何故か飛ばしたりする。それはもう昔から、トロフィーを落としたのだって普通はなかなかないのに。カメラを落とすのもひっくり返すのも、もう朝飯前ってぐらいで。
そのたびに全員で、「またキムミンギュが」って言って笑ってた。呆れたり怒ったり慰めたり笑ったり。
でもまさかそんなこと......ってことが、なんでか起きるから。
そしてその時もまた、それは起きた。

足下が悪かったのか、ミンギュの体重が思った以上にニワトリ小屋を支えてる柱にかかったのか、よろけたミンギュに押されて柱が簡単に倒れていって、当然のようにそれは他の柱や側面の板や、屋根にも影響して。
全部はスローモーションのようで、ニワトリ小屋は一瞬で崩れてしまった。
中にはまだ、卵を集めていたスングァンがいたのに。それは大した大きさではないにしても、やっぱりそれなりに重さだってあるはずなのに。
驚きすぎてディノは叫ぶこともできずに、口だけを『あッ』って感じで開けてただけだったのに、「スングァナッ!」って最初に叫んだのはジョンハンで、エスクプスと2人、スングァンの名前を叫びながら瓦礫と化したニワトリ小屋に手を伸ばしてた。

結構な音もしたのかもしれない、それに普通じゃない叫び声を聞いたんだろう。だってジョンハンもエスクプスも、スングァンのことをその名前では決して呼ぼうとはしなかったのに。
バーノンとジョシュアがそれを聞きつけて走って来る間にも、ジョンハンとエスクプスは「スングァナッ!」って叫びながらも必死に手を動かしていた。
大き目な柱をエスクプスが自分の身体を押し込んで持ち上げれば、ウォヌもミンギュも手をだして全員で支える。そこには色んなものが崩れてるっていうのに、ジョンハンは少しの隙間に身体を突っ込んで、「スングァナッ!」に手を伸ばした。
それほどしっかりしたニワトリ小屋じゃなかったのが幸いしたかもしれない。
ジョンハンはすぐにスングァンの身体に触れることができたから。
それでもジョンハンによって無理やり引っ張り出されたスングァンは、あちこちに血を滲ませていたけど。でもなんでか、卵は離してなくて、しかも全部割れてなくて。

「凄い! 卵は全部守ったよ!」

スングァンのそのテンション高い言葉にどれだけ全員がホッとしたか。
エスクプスがスングァンのことを抱きしめながらも、ケガの状態を確かめていた。

何か違うって、気づいたのは絶対に自分が一番だって自信がある。
でもすぐに全員が気づいたけど。
スングァンはエスクプスに大丈夫って答えながらも、「なんで急に小屋が崩れるんだよ」って口にして、それにミンギュが「ごめん。俺がよろけて柱に変な力かけたら一瞬で」って言えば、「また? またキムミンギュじゃん!」って言ったから。
ミンギュのことを睨んでくるその怒った表情は、本気で怒ってる訳じゃないことを知ってる。いつだってオーバーリアクションで、その表情はくるくる変わって。
ミンギュが泣きそうな顔をしたら、「大丈夫だったからいいけど」ってすぐに笑うその表情も。

「スングァナ?」

涙がもう止まらなくなったのか、ボロボロ泣きながらウォヌがスングァンのことを呼ぶ。

「ウォヌヒョンッ!? なんで泣いてんの? どうしたの?」

泣かないはずがない。だけどディノはまだ驚いていて、口を開けたままでただただ驚いていただけだった。

「間に合った............」

小さい声でそう言ったジョンハンもまた、驚いてたのかもしれない。
その声を聞いて、ディノはハッとして走り始めた。もしかしなくても、人生で一番必死に走ったかもしれない。

それほど離れてない場所まで必死に駆けて、「オモニッ! オモニッ! スングァニがッ!!」って言えば、家の中で何かを作ってたはずのオモニが飛び出して来た。
きっとディノの説明は、全然判らなかっただろう。だって「ニワトリ小屋が崩れて、スングァニが中に取り残されて、助け出されたら、スングァニが」しか言えなかったから。

オモニはオモニが走れるだけ必死に走ったのに、ニワトリ小屋まではたどり着けなかった。
その姿を見つけたスングァンが、せっかく無事だった卵を放り出して、「オンマァッ!」って言いながら走って来たから。走ると言ったってスングァンだって足を引きずりながらで今にも転びそうだったのに、それでも必死に走って、抱き合う姿に全員が泣いた。
バーノンは願っても願っても叶わなくて、半ば諦めていたのに、あっさりとスングァンから「ハンソラッ!」と呼ばれて、泣き崩れてた。

全員集合しようって言ったのはユンジョンハンで、ドギョムもウジもホシも一日でもいいから一度呼び戻して、全員で集まろうって話になって、ディノは通いなれば道を歩いた。
一緒に行くというジョシュアのこともウォヌのことも押しとどめて、ウジとホシのいる場所を目指した。

スングァンは泣き疲れて眠って、その日からしばらくは母親から離れなかった。
でも照れたように笑って家から出てくると、新しくなったニワトリ小屋にいつものように卵を取りに入っていったって、後から聞いた。
畑にいても、ニワトリ小屋にいても、水を汲みながらも、懐かしい歌が響いてた。
また聞けるとは思ってなくて、しばらくはその声を聞くたびにみんなが泣いていた。当のスングァンは楽しそうに笑って過ごしてるっていうのに。

空も山も風も水も、それまでと何も変わらないはずなのに、輝いて見えるとバーノンは言う。
スングァンが照れて笑う姿も、必死に何かを言う姿も、怒ってたりふざけてたり楽しそうだったり、どんな姿も思い出の中にしかなかったはずなのに目の前にあって、失ったものも多かったけれど、絶対に失えないものだけは取り戻したみたいだって、バーノンは言う。

今度こそ13人。揃って全員で笑って、それから泣いて。
もっと感動的なあれやこれやがあると思ってたのに、なんでか全員でマフィアをやった。相変わらずホシはキレキレで、「俺まだいけるんじゃない?」なんてことまで言って、全員を笑わせてた。
次の日も、その次の日もあるから懐かしい話はのんびりとって誰もが思ってたはずなのに、ほぼほぼ寝てないのに夜明けを待たずにホシとウジは「じゃあな。そろそろ今面倒見てる牛が産気づく予定だから」と2人はさっさといなくなってしまった。
でも今度はちゃんと乳が出る牛を連れ帰ることができるとも言っていたから、2人は相変わらずセブチを愛してる。

ディノはあれ以来、いつだって駆けている。
やっぱりあちこち遠出することだって多いのに、早く帰らないとスングァンが煩いから。どこで油売ってんだよ心配するだろって、毎日毎日本気で心配してディノの帰りを待っていてくれるから。
優しくて愛しくて、兄なのに弟みたいで、でもやっぱり兄で、ケンカばっかりしてたけど、大好きだった人の名を、ディノは取り戻した。

「スングァナ~!」

遠くからでも待っていてくれる姿が判るから、叫びながら手を振りながらディノは走る。

いつか。いつか。いつか。そう考えて戦場を駆けたあの日はもう遠い昔で。
泣きながら走ってたのに、今は笑いながら走ってる。
オモニが楽しそうに種を撒くから、あちこちに花が咲いている。
いつだって優しい歌声が、懐かしい恋の歌が聞こえてる。

「ただいま~」

そう言えば、「おかえり」って返ってくるはずなのに、「遅いッ」ってスングァンは怒ってた。
スングァンはよく怒る。でもそれ以上によく笑ってる。
なんでもないことでも、楽しそうに。幸せそうに。

 

The END
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