妄想heaven

SEVENTEEN全員でのドラマか映画が見たいな......

風に旋律

風に旋律1

「お前、嫁は?」

ホシはよくそう聞かれる。まだ嫁を迎える前のこと。
昔から放牧を請け負う家に育って、ほぼほぼ一年中エサとなる草原を巡るように動いてる。決まった場所を定期的に移動しているだけだけど、家には滅多に帰らない。しかも動物たちは預かってるだけだから、ホシの家が裕福ってことでもない。
だから嫁なんて、求めたって簡単には見つからないだろうし、同じように放牧を生業としている男たちは、結構な確率で嫁に逃げられていた。

「ホシや、お前の嫁さんは?」

でもある日ホシのもとに、花嫁さんがやって来た。それからはいつも、そう聞かれる。
たまたま仕事中に困ってた人を助けただけなのに、結構な偉い人だったらしく、お礼にとお嫁さんを手配してくれたらしい。
これも縁だと親父が言うから、会ったこともないけどお嫁さんを迎えることにしたのに、1人で馬車に乗ってやって来たのは男だった。

遠い国では、男でも花嫁になるところもあると言う。
家族全員、ポカンとしてしまった。いやめでたいめでたいって言って集まってた村の人間全員、言葉を失っていたかもしれない。でも異国の青い服は良く似合ってた。

「歌えます」

名乗る前にそう言った男は、たった3本しかない弦を張った小さな楽器のようなものを手に、朗々と歌った。
どこの国の言葉だったのか。それともただの音だったのか。
どれぐらいの時間が経ったのかも判らないほどの心地よさは、一瞬だったのかもしれないけれど、「あぁ、お前の嫁さんは、風に旋律をのせる人だねぇ」とハルモニが言った言葉がホシの耳に残ってる。

時々いるという。そういう歌が歌える人が。それもまた異国では当たり前なのかは判らない。
歌えば緑が生い茂る。
放牧を生業としてる家の嫁には相応しいと、男だってことを横に置いて皆んなが喜んでいた。

「まぁ大丈夫だろう。俺たちもう孫もいるしな」

親父が言うのに、母親も「それもそうね」と頷いていた。
姉夫婦には確かに子どもが2人いて、姉の腹は今も膨らんでいるから、今年のうちにはさらに賑やかになるだろう。

誰かにバシバシと背中を叩かれること十数回。結婚式の時には牛を一頭潰すのが慣いで、それはホシの時も同じで、あちこちで皆んなが楽しそうに食べて飲んで楽しんでいた。あんまり強くもないのに酒を注がれて酔っ払って、結局その日、ホシは自分の嫁の名前さえ聞かずに終わった。

「初夜だってのに申し訳ない」

誰かに担がれながら歩いた。きっともうダメだと判断されて寝床に放り込まれるんだろう。それは大抵いつものことだけど、さすがに今日はダメなんじゃないかと思ったのは、誰かがホシの嫁に謝る言葉が遠くに聞こえてたから。それになんて言葉が返されたのかは判らない。でも気づいたら朝だった。同じ布団の中、隣りには昨日嫁に来たばかりの男が寝てた。

寝顔がキレイだった。もしかしなくても、生まれたばかりの赤子よりも肌は白いかもしれない。目を閉じてるからか幼くも見えた。思えば随分小さめでもあって、もしかしたら子どもなのかもしれないとも思える。少なくともホシよりは年下のはず。

その白さ加減から硬そうにも見えるけど、触ればぽやぽやだった。それは勝手に頬に触れて押してみたら判ったことだけど、そんなことをしたもんだから、嫁は目をパチリと開けた。とっくの昔に起きていたのか、起こしてしまったのかは謎だけど。

「あ、飯を炊かなきゃ」

そう呟いた声は、やっぱりホシには心地よい声だった。呟いただけで起きようという素振りはなかったけれど、嫁として、食事の用意をするつもりだったのか。

「初夜の次の日は昼まで寝ててもいいんだ。そういう仕来たりだから」
「何もしなかったのに?」
「..................」

嫁はちゃんと喋る。2人の会話はちゃんとかみ合う。
微妙なことを言われて言葉を失ったけど、でもその事実に気づいてホシは嬉しかった。異国の服を着たまま、そのままずっと距離があり続ける可能性だってあったんだから。

「ごめん。飲み過ぎた」
「祝い酒だし、しょうがない」
「いやでも、きっとみんな、気を使って酒を飲ませたんだと思う。普通なら結婚式にあそこまで飲ませることはないから」
「どんな気を使ったんだ?」
「俺が初夜で失敗すると思われたんだよ」
「..................」

今度は嫁が黙った。勝ち負けなんかじゃ絶対ないけど、ホシはやっぱり嬉しくなって思わず隣りを見たら、嫁もホシのことを見ていた。

「ちゃんと勉強してくるから、ちょっと待ってて」

笑ってそう言ったら、無表情のまま「わかった」と嫁が言う。
それからちょっとだけ黙って終わりかと思ったのに............。

「勉強はいいけど、練習はダメだからな」
「..................」

なんとなくしっかりやり返されて、黙ったのはホシの方だった。
まだ名前も知らないホシの嫁は、どうやら浮気は許さないタイプらしい。
まだ名前も知らないのに、まだ、名前も知らないのに、その時ホシは、嫁に惚れたのかもしれない............。

ようやくお互い名乗りあったのは、昼飯ができていると呼びに来た姉の声が聞こえた後のこと。
でもまだその時はお互い、本当の名は交わさなかったけど......。

 

風に旋律2

ホシの嫁は白飯ばかり食う。
家族はその姿を目にして、「異国から来たから食事の味があわないんだろう」と不憫がったけど、ウジはただただ白飯が好きなんだと、最近ホシは気づきはじめた。

朝起きて、ウジは飯を炊く。
料理の手伝いをするつもりかと思ったけど、炊くのは飯だけだし、それも自分が山と食べるからなんだと気づいたのは、朝から白飯を3杯も食べたくせに、昼にも3杯食べて、夜にも3杯食べるから。それもほぼ毎日。

おかずなんてほとんど食べない。それこそ豆一口食べて白飯を五口ぐらい食べる。
黙々と食べているけれど、きっとそれが普通で、白飯が好きなんだろう。

「いや、俺、頑張って働くわ」

ホシはちょっと呆れはじめた家族に向かってそう言った。
そこでふとウジは顔をあげた。黙々と白飯を食べてたっていうのに、ホシの顔と自分の手元の白飯を何度も見比べている。もしかしなくても、次からは2杯で我慢しようとか、思ってるのかもしれない。

「大丈夫。白飯ぐらい、もっと食べても余裕はあるよ。でもおかずも食べてほしいけど」

ホシがそう言えば、ウジは頷いて、また黙々と白飯を食べ始めた。

ホシはもうすぐ、動物を連れて放牧に出る。家に戻ってくるのは2週間ぐらい先になる。エサのある場所を巡る必要もあるけれど、そうしながら預かっている動物たちを返したり、また新たに預かったりもする。
動物を預けてくれた人たちは、動物たちがどれぐらい成長したか、健康でいるか、肌艶はどうかを見てるんだろう。最初は5頭しか預けなかった人だって、信用がつけば10頭20頭と増えていく。
十分に育った動物は引き取って売りに出し、また生まれて半年ぐらい立った若い動物を預けられて、放牧しながら巡っていく。

のんびりした日々に見えて、案外忙しい。動物たちがいなくならないように、何かに襲われないように、危ない場所に近づかないように。色んなことに気を配りながら行き、夜には交代で獣から守るために火を焚いて、寝るためだけのテントはもうボロくて風が通り抜けて行く。

「大丈夫。俺がいない間も、飯を炊いて好きなだけ食えばいい」

2週間の間のことを考えながらも、それでも大丈夫ってホシは言ったのに、ウジは「飯なら俺はどこでも炊ける」と言った。
その意味をちゃんと理解したのは、ホシが仕事に出る日、なんでかホシの横に当然のようにウジが立っていたから。
嫁に来た時のように手には弦がたった3本しかない楽器を手に、嫁に来た時と違うのは異国の服じゃなくて、ホシと同じ服を着てるってことぐらいで、旅支度が整っていた。

「あら似合う」

急いであつらえた割には良く似合ってると母親が笑ってたから、ホシ以外の家族はウジが一緒に行くことを知っていたのかもしれない。
驚いてたらまたウジがぼそりと、「飯なら俺はどこでも炊ける」と言った。

「新婚だもんね。一緒にいたいわよね」

姉がそう言った。自分は夫を見送る立場だからかもしれない。
新婚だからではない気がする。だって自分たちはそれほどベタベタはしてないし、離れてると辛いって風でもないし、まだ本当の名だって交わしてないし......。

 

風に旋律3

子牛が混ざってたから注意をしてたはずなのに、風上から獣の匂いでもしたのか、動物たちがあちこちに走り始めた時、普段ならホシは一番に駆け出して動物たちの行き先を見定めたはずなのに、その時ホシが思わず探したのはウジで、動物たちが一斉に駆け出すことに怯えてないか、巻き込まれてないか、まさかケガでもしてないかと、思ってしまったから。
年下かと思っていたらまさかの同い年だったホシの嫁は、放牧の仕事についてきた。
歩くのは辛くないかと毎晩のように聞いていたけれど、もしかしたらホシよりも、いや誰よりも脚力があるかもしれない。
坂道だろうと足場が多少悪かろうと、ウジは絶対に歩く速度を変えたりもしないから。
それが楽なんだと本人が思ってるってことは、その時のホシはまだ知らなかったけど。

「ウジやッ! どこだッ? ウジやッ!」

叫んでも返事はなくて、見渡す限りウジの姿も見えなかった。それでなくても小さいのだから、転んだりしゃがまれてしまえば見失うのは確実で、最悪は駆け回る動物たちに踏まれてしまっているかもしれない。

「ヒョン悪い、俺はウジを探すからッ!」

少し遠くにいたヒョンにそう叫んで、ホシは走り出す。こんなことなら、手を繋いでいれば良かったと後悔しながら。
見渡しのいい場所から、ウジの名前を呼びながら走って、動物たちを追い立てて行く。でも動物たちがいなくなったその場にも、蹲るウジの姿は見当たらなかった。
待てと言えば良かった。無事だったなら、次は絶対に家で待っていろと強く言おうとも思った。きっとケガだってしてる。それでなくても小さいのに。
でも見つからなくて、動物たちに引き摺られて行ったのかと、最悪なことまで想像した時、風に旋律が乗った。

それは遠くから聞こえてきて、少しずつ大きくなって行く。音なのか歌なのか。聞こえてくる方を見れば、大分離れていたのかウジの姿そのものが小さく見えた。でも音を奏でながら歩いてくる。
ウジの周りには、興奮して走り回ってたのが嘘のように動物たちが寄り添っていた。その中にはまだ子どもと言ってもおかしくない動物たちもいた。

動物たちを探す手間が省けたと喜んだのはもう少し後のことで、ホシはウジのもとまで必死に走った。

「ケガは? どこか、ケガは?」

歌うのを止めてもウジは音を奏でることは止めなかった。
ホシが心配しているのをウジは不思議そうに見てたけど、しばらくしてから「ケンチャナ」とだけ答えた。

動物たちはウジのおかげもあって、一匹も欠けることなく、傷つくことなく、何事もなかったかのように移動を続けることができた。
いつだって、起きる時は事故だってあるし、野犬に襲われることだってあるし、収穫が悪い年には盗賊だって出ることがある。誰だって生きるために必死だから。
動物を預ける人たちは、お金で払う人もいれば、動物そのもので払う人もいれば、何かモノで払う人もいた。だから一定数、動物が欠けたって特に問題はない。でもそれでも、毎日一緒にいれば情だって移るし可愛くもある。一緒に長く旅をするんだから当然かもしれない。

「だから良かった。ウジのおかげなら、ありがと」

ホシがそう言えば、ウジは首を振ったけど、「歌えるから」とだけ答えた。
そうかと簡単に頷けないけど、ウジの歌は違うんだろう。ホシだって酒が入ってご機嫌な時には歌うけど、その歌とはきっと何もかもが違うのかもしれない。

「歌、聞きたい」

でもウジはそう言ってくれたけど。
今度なって言えば、やっぱり頷くだけ。
それからウジは飯を炊く。
一緒に旅をしてる人たちが交互にウジのもとにやって来てお礼を口にしても、ウジは首を振るだけだった。

照れているのか、人見知りが激しいのか、まだ嫁に来たばかりだからなと皆が笑う中、ウジがポツリと独り言のように口にしたのは......。

「許しがないと、旦那と旦那の家族以外とは口はきけない」

驚いたのは全員で、「お前、どんだけ嫉妬深いんだよ」とホシは背中をバシバシ叩かれたけど、そんなホシだって驚いていた。
だってそんなこと、言った覚えもなければ態度にあらわしたりもしてない。
でも思い出してみれば、確かにウジは自分と自分の家族以外とは口をきいたことがなくて、独り言のように何かを口にするか、誰かに問いかけられても答えはホシに向けて告げられるかばかりだった。

「ゆ、許すよ。そんなの、許すに決まってるじゃん」

今日は頑張ったからと2人でゆっくり朝まで休めることになった。だから隣りで横になるウジにそう言ったのに、「ダメだ。まだ名も交わせてない」と言われて固まったホシだった。

 

風に旋律4

ウジは今日も飯を炊く。それから時折風に旋律を乗せる。
ホシの嫁は働き者で献身的で、旦那の後ろを一歩下がってついてくる良い嫁だと思われている。
一度ウジの姿を見失って以来、ホシが何度も振り返るようになって、できれば側に、見えるところにはいてほしいと言ったからだろう。
ホシが歩く少し後ろを、ウジは黙々と歩く。
他の人よりもホシの移動距離が長くても、ウジはそれに文句を言うこともない。
そしてまだ2人は名を交わしていないけど、それは誰も知らない。

「ダメだ。まだ名も交わしてない」

許しなんて必要ない。誰とでも気軽に話せばいいと言ったホシに対して、ウジは頑なだった。
攫われたり拐かされたりはさすがに滅多にないが、それでも新しい嫁を貰えば人目を引く。時には人の嫁に懸想する奴もいるだろう。そんな時、名を交わしてない嫁の権利は簡単に奪われる。故意だろうとなかろうと、何か問われ、または話しかけられ、それに答えれば是となる。
最初の旦那には一番目の権利が与えられるだけ。

「ほぇ。でも、そんなこと、誰も言わないし思わないって」

男の嫁ってだけで、同情してくれる人もいた。いやホシはもうウジがいいと思ってる。だけど自分と同じような人間が、仲間内にほいほいいるとは考えにくい。だから笑って「ないない。大丈夫だって」って言ったのに。

「俺は歌えるから」

ウジのその言葉を、その時ちゃんとホシは理解してなかった。どんだけ物凄い嫁を貰ったのかを、まだ判ってなかった。
だからちょっと照れながらもモゴモゴと、「次にちゃんとした町とかで、宿屋に泊まれる時まで待って」って顔を真っ赤にして言うだけだった。
勉強すると約束したのは嘘じゃない。その結果、こんな大草原の中、何も準備もせずにやり遂げられる事じゃないってことだけは判った。

「お湯があった方がいいし、ダメでも水はあった方がいいらしい。それから、できれば柔らかくて広い場所が必要だって。あと、暗くできる場所と明るくできる場所も必要で。枕は1つしかいらないらしい」
「............わかった」

ホシがどこでどんなことを勉強してきたのかは知らないが、ウジはそれにも文句なんて言わなかった。

それから2人で、ほぼほぼ同じ景色を見ながら放牧をしながら、旅をした。
ウジは時々風に旋律をのせる。それで緑が生い茂っていく姿は不思議だったけど、見たいと言えばウジは見せてくれた。
ホシだって歌った。

「お前の声は好きだ」

そうウジが言った時、思わず「え? も、じゃないの?」と言ったら、ウジはちょっと考えて、「お前の歌も好きだ」と言いなおしてくれた。
足場の悪い場所で、荷物があったら邪魔だろうと手を出したら、なんでか手を握られた。違うんだと言いかけたけど、そのまま黙ってた。
ホシは最近、横で眠るウジのその姿にドキドキする。だから同じだけドキドキしてくれたらいいと思ってたけど、手を繋いだまま歩いて振り返った時、ウジのいつもは真っ白な頬が赤かった。
足場が悪い場所を歩き続けたからかもしれない。手なんて繋いだって荷物は減らないし余計に辛かったからかもしれない。でも足場が安定したってその手を離さなかったホシに、その手を振り解かなかったウジがいたから、ちょっとはウジも、横で眠るホシの姿にドキドキしてくれてるのかもしれない。

きっとあと3日も夜を越えたら、宿屋に泊れる場所に着く。
いつもなら動物たちと一緒に眠るけど、新婚だからと皆がホシとウジに宿屋に泊れと言ってくれる。
そんなの、何をするのかだって全部バレバレなんじゃないか......とか思うけれど、今回ばかりは遠慮とかしてる場合じゃないのかもしれない。
だって早く名を交わさなきゃ、ウジはホシ以外の誰かのものにもなってしまうかもしれないんだから......。

 

風に旋律5

「風が変わった」

そう言ったのはウジだった。その言葉にホシは「え? 雨でも降る?」とのんびりしたことを言ったけど、事態はそんなのんびりした話じゃなかったようで、先頭を行っていたヒョンたちが、遠くから慌てたように戻って来る姿が見えた。

「下がれッ、戻れッ、できるだけ風上を目指せッ!」

その声が聞こえた時には理由はもう判ってた。遠くから何かが燃える匂いがしてきたから、まだ煙も見えないから、今ならまだ消火が間に合う程度なのかもしれない。
でも放牧を生業としているものたちが火消しに参加することなんてほとんどない。できるのは、動物たちを追い立ててできるだけ距離を稼ぐことぐらいだった。

動物たちを追い立てて、ウジの手も握って、ホシは風上で居続けることだけを意識しながら移動していた。
目の端では動物たちがはぐれないか、後から追いかけてくるヒョンたちが逃げられそうかをずっと見てた。いざとなったらこの手を離してもウジは1人で逃げ続けられるか。それだって考えた。
風上を行ったつもりでも、気づけば風の向きがかわり煙に追い立てられることがある。

一番後ろを来ていたはずのヒョンが、駆け上がって、ウジの手を引くホシのことすら抜かして行った。1人でなら皆んな余裕で逃げられる。いつだって動物たちがいるから思った以上の時間がかかるだけで。
もうほんとに、どうしてもの時は動物たちを諦める。きっとヒョンはそんな判断をしたんだろう。
遅れているのは小さめの動物たちばかりで、逃げ続ける方が難しいはずだから。
でも駆け抜けて行ったヒョンが、少し高くなった場所で止まってた。

「なんで............」

言葉を失っているヒョンの横に立ってその光景を見て、ホシだって言葉を失った。
先に逃げたはずの動物たちがまた、逃げ場を失っていたから。

「囲まれたのか」

冷静に言ったウジの言葉は正解以外のナニモノでもなかったけれど、信じたくはなかった。
かなりの距離を逃げたはずだから、囲まれているというよりは反対側でも火がつけられたんだろう。それはもう、どう考えても偶発的なものではなかった。

「ホシや。お前の嫁は泳げるか」

ヒョンが言う言葉の意味を、ホシは正確に掴んだ。
動物たちを捨て置いて、死の物狂いで逃げるなら水場に出るしかなくて、泳げるなら人だけは確実に助かる。

「泳げるかッ?」

勢いよく振り返ってそうホシが聞くのに、ウジは静かに首を振って、「わからない」と答えた。泳いだこともきっとないんだろう。
ホシはウジの手を握ってたその手に力を込めた。絶対大丈夫。絶対離さない。そんな気持ちを込めて。
でも手を離したのはウジの方だった。

「でも、俺は歌える」

ホシと繋いでない方のウジの手が、必死に握り続けるホシの手を叩く。それは強過ぎるでもなく、弱過ぎるでもなく、トントンと心地良く、ホシは思わず「なに? どうした?」って言いながらその手を離してしまった。
自由になった両手で、ウジは背負ってた荷物の中から、弦が3本しかない楽器を取り出した。

「歌ってる場合じゃない。でもそれも全部、捨てて行かなきゃいけないかもしれない」

泳いで逃げるなら、ましてやウジを支えて水の中を行くなら、余分な荷物まで持ってはいけないから。そう思ってその楽器にホシは手を伸ばしたのに、ウジにさらりと躱された。

「ホシや、今ここで、名を交わそう」
「ここで? 今?」
「時間がない」
「でも俺ら、まだ」
「うん。それは2人だけの秘密だ。俺とお前が話さなきゃバレない」

そう言って、ウジはホシの耳元に顔を寄せた。
はじめて聞くその名前は、ウジに良く似合ってた。

「お前は? 教えてくれないのか?」

あぁ、そんなことをしてる場合じゃないのに。でも確かに自分だけ聞いて教えないなんてあり得ない。自分たちは夫婦で、その名はお互いのためだけにあるんだから。
ホシもウジの耳元で、自分の名前を口にした。

「お前の名前、音が、心地よいな」

ニカってウジが笑った。
バカみたいにその笑顔に照れて、離してしまった手を握り直すことを忘れてた一瞬で、どうやったかウジはホシから距離を取った。
見えたのは、その指先に何かを嵌めていることだけ。日頃はその綺麗な指で弦を弾くのに、なんでかその時は指に何かを嵌めていた。理由はすぐに判ったけど、判った時にはウジはさらに離れてた。

「爆ぜろッ」

ウジの声は、それすらも旋律だった。
いつもよりも強く強く、たった3本しかないはずの弦が掻き鳴らされていく。
ウジは風上にいた。いや多分、ウジから風が吹いていた。
歌というよりも、その声が音が風を作り出す。掻き鳴らされる音が響くたび、ウジは風を生み出した。そしてやっぱりホシからは離れてく。
でもきっと、ヒョンたちも動物たちも、その全てを守ろうとしてくれたんだろう。

「お前、凄いのを嫁に迎えたんだな......」

集まってきたヒョンたちがそう言うのに、ホシも呆然としながら頷いていた。

 

風に旋律6

動物たちは一頭たりとも死ななかった。荷物も食料も、何もかも捨てる覚悟を一度はしたのに、何一つ捨てずに済んだとヒョンたちは喜んだ。
でもホシは嫁を失った。
正確には失いかけて、なんとか取り戻して、でも取り上げられて、今は一緒にいない。

「放牧の間は離れて暮らすのが普通なんだから、一緒にいられないぐらい何よ」

そう言ったのはホシの姉で、そう言われればそんな気もするけれど、でも、ウジはホシと一緒に歩くことができたのに。
きっと何もなければ、自分たちは普通に名を交わしたはず。それから毎日ウジは飯を炊いて、ホシはもっと頑張って働いてって、してたはず。
さすがに風に旋律はのせられても、ウジが子どもを授かることはなかっただろう。それでもきっと2人でいれば、幸せだったはずなのに。

「別に別れた訳でないし、ウジは今でもお前の嫁だろうが」

義兄がそう慰めてくれる。
確かにそうだ。あの後、ウジは風を操って火をすべて追いやった。それだけでも凄かったのに、追いやった火はそれをつけた人間たちまでも追い詰めて、コトはすべて終わってしまった。

襲ってきた人たちは、自分たちの枯れた土地を捨てて流れてきた人たちで、動物たちどころか、その場所も、最後には女子どもも奪おうと画策してたらしい。
それを知って、誰もがウジに感謝した。それだけならウジはすぐにホシのもとに戻ってきただろうが、ウジのその力はやっぱり半端ないようで、偉い人のそのまた偉い人の、それよりももっともっと偉い人の、とにかく偉い人がウジを連れて行くと言い出した。
利用できると思われたんだろう。
それぐらいホシにだって判る。偉い人には簡単には逆らえなくて、どれだけ大切なものを目の前で奪われてもどこにも訴えるとこなんてないってことも。

「夫と離れては、歌えない。名を交わしたから」

ウジはでもそう言って、召し抱えてやると言った男の言葉に断りを入れた。
普通ならそこで諦めるものなのか、そんな普通は判らないからホシはただそのやり取りを見てるだけだった。でも偉い人は「夫は、不慮の事故で死ぬこともあるだろう」と言った。
ホシは自分がうっかり死ぬこともあると言われてるのに、それにウジがなんて答えるのかと、ウジばかりを見てた。

「夫が死ねば、歌えない。名を交わしたから。心が半分死んでしまう」

驚くでもなく、動揺するでもなく、ウジは淡々と答えた。
それはウジの国の人の常識なのか、それともウジだからなのか。ウジの言葉の中にどれぐらいのホントがあって、どれぐらいのウソがあるのか。
ホシには判らなかったけど、ウジがいなくなってしまえば、ホシだって心が半分持って行かれるかもしれない。いや今なら全部かもしれない。

駆け引きが成功したのかは判らない。とりあえずウジは仕事を手伝うことになった。偉い人たちに召し上げられることも囲われることも二度と会えない場所に閉ざされることもなかった代わりに、期間限定ながら普通に働くことになった。

「稼いでくる。戻ったら、それで家を建てよう」

ホシの嫁は、家すら自分で建てるつもりのようだった。
それからホシは放牧をして旅をして、時々家に帰るはずのところを、仕事が落ち着けば1人夜だって駆けて、ウジが働く場所まで行く。
一緒にいられる時間は数時間だってこともあるのに。

「俺は嫁を失ったみたいだ」

時折拗ねて言う。

「名を交わしたから、お前が死んでも俺はお前の嫁だ」

ウジは安心しろと、そう言う。何も安心できないようなことを。

「まだ、ちゃんとしてない」
「家を買ったら、身体も交わそう」
「次に会えるのがいつかも判らないのに」
「うん。でも待ってる」

逢瀬は一瞬で、ウジは仕事に戻っていく。ホシもまた、長い道のりを帰っていく。

 

風に旋律7

子どもが生まれた。
姉の3番目の子は男の子で、両の目がない子どもだった。時々いる。
生まれた子どもに何かが足りないと、「この子は長く側にいてくれる子だね」と言って皆が喜んだ。
ウジにそれを伝えると、「祝歌を」と言って、長く長く歌ってくれた。
祈りやら願いやら、あらゆる気持ちを込めてくれたのかもしれない。その歌を聞いたホシの方が奮い立ちそうになったから。
そしてまたウジと離れて長い時間をかけて家に戻ってみたら、遠くから歌が聞こえてきたと姉が言っていた。その歌を聞いて生まれたばかりの子どもが笑ったって喜んでいた。
ウジは風に旋律をのせて、それを自分の望む場所まで飛ばせるんだろう。
それならホシのもとに、その声を届けてくれてもいいのに。
次に会いに行った時、ウジははじめて「お土産」と言って、コロコロとなる木彫りの鈴を持たせてくれた。自分へのお土産かと「なに? 飾り? お守り?」とテンション高く喜んだっていうのに、「お前のじゃない」とウジが冷たく言う。それは子どもへの土産だという。
コロコロと鳴るだけのそれは、楽しいものではないけれど、優しい音がした。
ウジは「見えないなら音をよく掴む子だろうから、いつか風に旋律をのせられるようになるかもしれない」と言った。
その言葉に不思議顔で、「お前の家系の子でもないのに?」と言ったけど、「俺たちがいずれ本物の夫婦になれば、そこからは同じ家系だ」と当たり前のように答えられて戸惑った。

まだ本物の夫婦ではない。勝手に名を交わしたけれど、それは2人だけの秘密で。でも本物の夫婦になれば、目の見えない甥っ子にもウジの家系の恩恵が訪れるかもしれない。

誰もが子どもが生まれたことを心から喜んでいたし、目が見えないと判った時にも酷く悲しんだりはしなかった。未来が狭まってしまうことも判ってはいたけど、それでも普通の人にはできないことがたくさんできる子になると皆が言っていた。
ホシだってそう思ってた。でもウジの言葉を聞いて、泣きそうなぐらいに嬉しかったのも事実だった。

「まだ言うなよ。俺たちのことは秘密だから」

ウジにそう釘を刺されなきゃ、きっと飛んで帰って家族に言ってしまっていただろう。

「我慢する」

そう約束して、お土産を大事に懐にしまったホシだった。

 

風に旋律8

ホシはその日、夜中に飛び起きた。
寝てたけど、耳元でウジの叫び声がしたから。「ぅわぁぁぁ」って。絶叫とも悲鳴とも違うけれど、それは確かに叫び声で、聞こえるはずのない場所にいるのに聞こえたことを夢だと思うよりも早く、ホシの身体は動き出していた。
本当なら後数日で、放牧のための旅に出るはずなのに、「ごめんッ」って言えば遠くから「いい、行けッ」と義兄の声がした。夜中だというのにその横には姉がいて、他の家からも人がちらほらと出てきてたから、もしかしなくてもあの叫び声はホシだけに聞こえた訳じゃなかったのかもしれない。
ホシは暗闇をひた走る。
たどり着いた時、「ごめん虫に驚いただけ」とか、そんなことを言ってくれればいいって願いながら。
ウジと出会ってから、ただ吹いてるだけの風すら愛おしくなった。綺麗だと思う景色はウジにも見せたいと思うし、美味しい食べ物はウジにも食べさせたいと思う。それを不思議だと仕事中に口にすれば、「それが夫婦だろ」と笑われた。
まだ本当の夫婦ではないけれど、そんなこと大したことじゃないとは言えないけれど、それでもウジはもうホシにとっては大切な嫁だった。
たどり着いた時、ウジが左手を吊っていた。

「右利きだから問題ない」

絶対そんなことないはずなのに、何事もなかったかのような表情で言う。

「叫び声が聞こえた。それで俺、飛んで来た」

そう言えばウジは叫んだことが不覚だったのか、ちょっとだけムッとした顔で「油断してたから叫んだんだ」と言った。
攻撃だったなら、絶対にこんなことにはならなかったとも言ったから、それは事故だったのかもしれない。でもホシは「なんだ。そうなんだ」と納得したりはしなかった。だってウジがいつだって手放さなかった、3本しか弦がないくせにウジの歌をどうとでもできるあの楽器が真っ二つに半分で折れていたから。

「一緒なら、絶対こんなことにはなってなかった」

ホシは悔しくて、泣けてきた。本当なら自分が守るのに、守れなかったことに。一緒にいられない今に。楽器が壊れてしまったことに。ウジが傷ついたことに。それなのにウジが全然平気みたいな顔をしていることに。

「ごめん。お前がいないところでケガをして」

ボロボロと泣いて、もう少しで子どもみたいにワーンとだって言い出しそうだったホシのことをウジが慰める。

「余計にブサイクになるから泣くな」

微妙に優しさはなかったけれど、それでも日頃はホシばかりがウジを抱きしめるのに、逆にウジがホシを抱きしめた。

 

風に旋律9

ウジの壊れた楽器を手にして、ホシは旅立った。
「どこなら手に入る?」と聞いたら、「実家」とウジが言ったから。
いきなり行って婿だと名乗って、楽器をくださいと頭を下げたらくれるだろうかって真剣に悩んでたら、「これを持って行けば当然くれる」とウジが笑って言った。

「父親は不愛想だけど涙もろい、母親はお喋りだけど怒ると怖い」

ウジはそう言った。
だけどもう少し何か補足して欲しかった。

見知らぬ街や丘や川を越えて、走って3日。途中馬車にも乗せてもらった2日。それから山を登って1日。
辿り着いた先にはウジによく似た小さめの2人がいたけれど、差し出した壊れた楽器を見て、「だからあの子の歌が聞こえなかったんだ」って言って、黙ってしまった。
父親は何も言わずに、涙を一粒だけ零した。
母親は震える手を抑えてた。それからしばらくして、物凄い低い声で、「あの子に何があったの?」と言った。

結局ウジは、ホシにだって何があったかは教えてくれなかった。だからホシだって「実は」って言いたかったけど言えることは何もなかった。
だからバカみたいに「あいつが、事故みたいなもんだって」って言うことしかできなかった。

「風使いは事故になんてあわないし、あの子ほどの手練れが油断するはずもないのに」
「嫁になんて出したのが間違いだったんだ」

母親はウジが誰かに遅れを取ったことが悔しそうだった。
父親はウジを嫁に出したことを悔やんでいるようだった。
思わぬ離縁の危機に、ホシは慌てて「だ、大事にします。一生大切にしますッ」って、今から嫁に貰うのかみたいなことを言ってしまった。
そこでやっとウジの両親は、目の前のホシが自分の息子の旦那なんだと気づいたようだった。

「あらあらまぁまぁ」と、なんでか母親のテンションは上がったらしい。
「歌が聞こえなくなってからの日にちを数えたら、すぐにここに向かって来てくれたんだね」と、父親はそれで安心したらしい。

最初はぶっ飛ばされそうな感じだったのに、「あらやだ、あの子の旦那さんなんだから、私の息子みたいなもんじゃない」と母親は喜んで、ホシの前に色んな料理を並べだした。
ウジのことを取り戻したがっていた父親も、ホシが飯を自分で炊いて毎食毎食あほほど白飯を食べてる話をしたら、「そっかぁ、大切にされてるのかぁ」と、やっぱりちょっとだけ泣きそうになりながらも喜んでいた。

2人は交互にホシの前から消えて、ウジのための楽器を手に現れては、自分が選んだ楽器の特徴を語り自慢をしてホシの前にさしだす。でもホシがほへ〜みたいな顔をしてるもんだから、また引っ込んで次の楽器を探してくるの繰り返しだった。
途中でホシは気づいた。これはもしかしなくても、自分がウジのための楽器を選ばないといけないのかってことに。

「あの、あいつが弾けば、どんな楽器でも凄いと思うけど、できれば軽くてそれほど大きくなくて、それから壊れにくくて、いざとなったら武器にもなって、それからあいつが好きそうな音が出るやつがいいです」

ウジはきっとどんな場所だろうとホシと一緒に旅をするだろう。だから楽器は邪魔にならない大きさがいい。そうも付け加えれば、母親はまた「あらあらまぁまぁ」と言い、父親は「あの子はもう戻ってこないかもなぁ」としみじみしてた。

「今度は2人で来ます。絶対」

そう言えば、やっぱり父親はポロリと泣いていた。
なんでか楽器は選べないと3つも持たされた。
帰りは、驚くほどに身体も軽くて速かった。その理由はなんとなく判る。それはどんなに離れても、後ろから不思議な音が途切れなく聞こえてきてホシのことを守るように寄り添ってくれたから。
きっと母親と父親と、交互に寝ずに音を奏で続けてくれたのかもしれない。

 

風に旋律10

戻って来たホシを見て、ウジは驚いていた。
行って帰ってってするには早すぎたからかもしれない。そう思ってたのに、「お前凄いな」とウジが言った。
楽器を3つも持って帰って来たことに驚いたらしい。
「お前、凄い奴だな」
しみじみとウジが言う。いやそんな凄いことをしたつもりもないけれど、両親の関門は案外大変なことなのかもしれない。
ウジは3つとも手に取って、嬉しそうに撫でていた。
子どもでも一度におもちゃが3つ貰えることはそうそうないから、そういうことなのかもしれない。
「気分で楽器を変えられるなんて、夢みたいだ」
そこまで喜んで貰えるなら、ホシだって走った甲斐がある。
「なぁなぁ、じゃぁ俺にご褒美は? ポッポでもいいけど?」
そう言って冗談ぽく顔を前に差し出した。ほっぺに軽くチュッて、それぐらいならしてくれるかもしれないと思ったからなのに、重なったのは唇だった。
離れていくその唇を追いかけたのはホシで、思わずはむってしたらウジは驚いていたけど、逃げたりはしなかった。

なんか、エロいチューをしてしまった......。そう思ってたら頬を染めたウジが「エロいチューしたな、俺ら」とか言うもんだから、思わずその場で押し倒したくなった。
「早く一緒に暮らしたい」
だからそう言えば、ウジが「俺も」と言った。

ちゃんとした夫婦っぽくもないのに、いつのまにか、そうだったのかもしれない。
そう思えるぐらい、2人の気持ちは一つだった。
「もう1つ季節を越えたら」
一緒に帰れる。とウジは言った。
「わ、わかった......」
さっきエロいチューだってしたのに、なんでか急に緊張してきて、ギクシャクした歩き方で帰ったホシだった。
きっと季節1つなんてあっという間で、気づけばその日が来るだろう。1人になってもギクシャクギクシャク歩いていたホシだったけど、気づいてしまえば今度は焦り出した。
まだ、何もちゃんと学んでなかったから。

 

風に旋律11

ホシは家に戻ってすぐに、義兄に、嫁を喜ばせる方法を聞いた。
「元気で働いてたら嫁は基本喜ぶだろ」
そう教えてくれたけど、ホシが聞きたいのはそういうことじゃない。ちょっとだけモジモジしたけれど、聞かない訳にもいかない。だってその時はもうすぐなんだから。
「いやそうじゃなくて、その、夜にその、その、その」
大分そのを繰り返したところで、「あぁそっちか」と気づいて貰えた。
「もうすぐ帰ってくるんだ。もう1つ季節越えたらって言ってたから」
嬉しいのを隠しもせずにホシが言えば、そっかそっかと義兄も一緒になって喜んでくれた。
でも、「こればっかりは経験だからな」と言った義兄は不味いことに、「まぁお前の場合は相手が男だから、コツとかが違うのかもしれないけど、一度町に出た時に詳しい奴を捕まえてやるよ」と言った。
いや当然親切心からだし、別に「どっかで練習しろ」とも「試してこい」とも言わなかった。
でも結果的には、それはかなり不味いことになった。

どう考えても素人ではないその綺麗な男は、「へぇ、お嫁さんと初エッチ前に練習かぁ。いいなぁ。愛されてるなぁ」ってホシの話をニコニコと聞いてくれて、「とりあえず、試してみる?」って言って服を脱ぎ始めた。
当然ホシは慌ててそれを止める。何せウジから、「勉強はいいけど、練習はダメだからな」としっかり言われたことを覚えていたから。
それも素直に伝えれば、物凄く驚かれたけど、羨ましいなぁとも言われた。それでホッとしてたっていうのに、「じゃぁ明日の夜、見学においでよ。してるとこ、特別に見せてあげるから」と言われてしまった。
ちょっと悩んだ。「それって練習じゃなくて、勉強かな?」って義兄に聞きもした。そして義兄は悩んだ挙句、「ギリセーフだろ」と言い、ホシもなんとなくそんな気がして、結局翌日、謎にホシのことを気に入ってくれた綺麗な男にお願いしますと頭を下げた。

 

風に旋律12

「は?」
物凄い無表情でそう言ったのは、ホシの姉だったらしい。後から義兄に聞いた。
なんで男のつく嘘は、いや嘘をついているってことは、嫁にすぐにバレるんだろう。
「何か隠してるでしょ?」
最初からそう決めつけられて、確かに隠してて、後で話すよと誤魔化そうとしたのに後なんてない今話せと睨まれれば即落ちするのは仕方のないことなんだと、義兄は後からホシに謝ってきた。
そして、「練習はしなくて、勉強だけで、それも見学だから」としどろもどろに話す旦那に向かってホシの姉は、「は?」って物凄く冷たく言った後に、「新婚なのに浮気するなんてサイテー」と言ったらしい。
「う、浮気じゃないよッ」と、当然義兄は言ったらしいが、「どこが浮気じゃないのか説明してみやがれ」と攻め込まれ、「や、やってないし、み、見るだけだし、て、手も出さないし」と言ったらしいが、その全てに舌打ちされたらしい。
どこからが浮気なのか............。
その線引きはきっと、なかなかに難しい。
だって絶対絶対絶対、浮気なんかじゃないとホシは言いきれる。でもウジの前でそれを強く言えなかったのは事実で、その時点でダメなのかもしれない。
まだ何も事は起きてなかった。でもウジは来た。
それはなんだか、襲来って感じだった。突風が吹き荒れて、天変地異の前触れのようで。
どこかで風に煽られて火すら巻き上がったらしいが、それがうねるように叩きつけた風が一瞬で消すのを、多くの人が見たという。
一応ちゃんとした建物の中にいたのに、ガタガタと建物そのものが揺れた。
遠くから、風だ。物凄い風が吹いてるって叫ぶような驚くような、早く家に入れって誰かの叫び声を聞いて、「やべ」って言ったのはホシだった。
ちなみにウジを呼んだのは姉だった。
どうやったのかと後で聞いたら、ただ叫んだだけだった。
強い思いで叫んだら、風がウジのもとに言葉を運ぶはずと思って、本気で「ウジやッ。あんたの旦那は浮気する気だッ」って叫んだら、しばらくして遠い雲の向こうから、雷のような感じの音が響いてきて、あぁ伝わったんだと思ったとか。
叫ぶ姉も姉だが、それを聞き取るウジもウジだ。
そしてそれを聞き取ったウジは、縛られるようにして仕事が終わるまでは離れられないと言っていた場所をあっさりと離れて、まるで本当に風に乗って飛んできたんじゃないかってぐらいの勢いで、ホシのもとへとやって来た。

 

風に旋律13

あちこちで悲鳴があがって周りは煩かったはずなのに、そこに突然あらわれたウジはいつも通りだったかもしれない。
でも怒ってた。
それは風が、ウジの心の中をあらわすかのように、あちこちにぶつかっては跳ねていたから。
何も言われてないのにホシは「う、浮気じゃないよ」と自ら言ってしまった。たぶんその時点で勝敗はついていただろう。
ウジは何も言わずにホシを見てた。でもチラリと同じ部屋にいる、綺麗な男と、その相手も見た。それからまたホシのことを見てくるから、やっぱりホシは何も言われてないのに「れ、練習じゃないよ」と言ってしまった。
ウジは1ミリも動かないのに、部屋の中だというのに風が舞って壁やらそこらの戸棚やらを叩いていく。
「ご、ごめん」
思わずホシは謝っていた。
ウジの心の中は推し量れない。でも風の強さがそれを雄弁に語る。
口を開きかけては閉じる。何かを言いたいのか、何も言いたくないのか。どちらにも取れる。ホシがもう一度「ごめん」と言いかけた時、ウジが思いのほかつよく言った。
「おいたもダメだ」って............。
「う、うん」
当然ホシには頷く以外の選択肢なんてない。
でも頷いたら、それだけで暴れてた風が収まった。
それからウジが手を伸ばすから、ホシはその手を取った。
あちこちで逃げ惑ってた人たちが突然止まった風に立ち尽くす中、ホシはウジと手を繋いで帰って行った。
おいたもダメなんだ............って、頭の中で何度も呟きながら。

ホシのおいたは、未遂に終わった。
帰り道、もう時間もないのにまだ全然、俺、ちゃんとできないかもって素直にホシが言えば、「いい。それでも」ってウジはハッキリ言った。
それから物凄く小さい声で、「俺もちゃんとできないかも」って言った。
握ったままの手をギュッと力を込めて握れば、ギュッと握り返される。

はじめての、ケンカでもないけどケンカみたいなことが起きた日。ホシはそう思ってたのに、ウジはそれを後日、「あれは離縁案件だった」と言ってホシを飛び上がらせたけど。
結局その騒動があんまりにも大きくなりすぎて、ウジは季節を超えることなくホシのもとに戻って来ることになった。
きっとホシと離しておいた方が危険だと判断されたんだろう。
ウジが駆け抜けた場所が、あまりにも悲惨なことになっていたらしいから............。

 

風に旋律14

横を見ればウジがいる。
手を伸ばせば届く距離にいる。
別にニコリともしないけど、でも透き通るような白い肌が、ちょっとだけ赤くなってるように見えるのは、気のせいじゃなかった。
ウジがホシのもとに戻ってきて、2人の生活がまたはじまった。
「ま、町の中の、ちゃ、ちゃんとした部屋が良ければ」
そう言ったのに、ウジは首を振る。
「こ、ここで?」
「俺たちの家だろ」
「でも、壁なんてペラペラだし」
今だって小声で話してる。
「こ、声が、聞かれるのは嫌だろ......」
いや声なんて出さないかもしれないけれど、出すかもしれない。第一、ホシが嫌だった。ウジの声を誰かに聞かれるなんて。だから「俺は嫌だ。誰にも聞かせたくない」って言えば、ウジは「問題ない」と言って新しくなった楽器をホシの前に差し出してきた。
理解できなくて首を傾けるだけで問いかければ、「声ならこれでかき消せるから」とウジが言う。
いやいやいやいや。いやいやいやいや。いやいやいやいや。さすがにそれはない。
そんなことしてる間にも、楽器を手放さないなんて、ある意味高等プレイな気はしないでもないが、初心者には無理そうだった。
ホシは何も言葉は発しなかったと言うのに、その表情と動きと慌てぶりで全部わかったのか、ウジが「違う」とホシのあらぬ想像を否定する。
驚くことに、ウジは「自動演奏ができる」と言う。
システムは判らない。だってそれは誰にでもできるのかと言えばできないと言うし、ウジだからできると聞けば、ホシにしてみれば魔法のようなものにしか思えなかったから。
「し、集中力とかがいるのか?」
思わずきいたホシに、「いや、途中で寝たとしても朝まで弾いてると思う」とウジはなんでもないような感じで言う。
その時の声は誰にも聞かれずにすむかもしれないけれど、夜に楽器を弾き続けるのは別の意味で苦情が入りそうな気がしないでもない。
でもとりあえず、ホシは「わかった」と口にしたし、ウジもそれに対して頷いた。
何をお互いが納得したのかは、絶妙に微妙なところだったけれど......、ひとまず2人の意見は合致した。

 

風に旋律15

2人のはじめての夜は一瞬だったかというと、全然そんなことはなかった。
脱ぐか脱がせてもらうか脱がしあうかってところからはじまって、電気を消すか点けたままにするかも話し合ったから。
2人の意見が合致しないこともあった。でもそこは譲り合った。
時には「じゃあ次の時は」って言いながら。
......っ、ぁ」ってウジが言った。
ふ、ぅ......ごめん」ってホシが言った。
2人の声は確かに外には聞こえなかっただろう。だってそこでは、なんだかやたらとジャカジャカと、派手に楽器が鳴っていたから。
いや自動演奏って、そういうこと?って思ったけれど、余裕がなくて突っ込めなかった。それどころじゃなかったから。
「もぉ、無理......かも」って、ホシの下でウジが言った。
「ご、めん。無理、止まらない」って、ウジを見下ろしながらホシが言った。
はじめてなのに、ウジは耐えた。それはずっとホシが手を握りしめていてくれたから、耐えられたのかも。
はじめてなのに、ホシは先走った。ゆとりとか余裕とか、そんなものは結構早めの段階で投げ捨てていた。
ウジに嫌われるかもとか、1週間ぐらいは口をきいてもらえないかもとか、怒ってるウジの表情とか、色んなものがホシの中をぐるぐる回っていったけど、結局どれもホシを押し止めることはできなかった。
何より一度だけ「きょ、今日はここまでにする?」って言ったホシに、「嫌だ」って言ったのはウジだった。
ホシがそうだったように、ウジだってこの日を待っていたんだろう。
早くちゃんと夫婦になりたいって、ウジだって思ってくれていたはず。
「俺も止めたくない」って言えば、ウジはやっぱり頷いて、握り合っていたその手に力を込めてくれた。
いやほんとに、2人して物凄く頑張った夜だった気がする。
でも結局2人の間で問題になったのは、色んな出来事ではなくて、自動演奏してくれていた楽器だった。
「いや、激しすぎだろ」
ホシの素直な意見に、ウジだってちょっと考えた風だった。
確かに激しかったから。曲調だって音程だってさざなみのような響きだって、自動演奏でも完璧なはずだったのに、昨日はどうしてだか突然激しくかき鳴らされたりして、本当に激しかった............。いやでもそれはきっと、ウジの心の乱れに影響されたってことだろう。
「まだまだ修行が足りない。ごめん」
ウジは悔しそうだったけど、でもあんなことをしてるのに、凪いだ音を奏でられるようになんて、ならないかもしれないし、そうなられたらなられたで、ホシは落ち込むかもしれない。
でもまぁ、声は聞かれないかもしれないが、それがそういうことをしてるってバレてしまえば、逆にそっちの方が恥ずかしいかもしれないと思ったけど、それはウジには言わなかった。
そんなことを知られてしまえば、二度とそういうことをしてくれなくなるような気がして......。

 

風に旋律16

ウジの自動演奏は、喜んでいいのか悪いのかは判らないが、それほど上達はしなかった。
もちろん普段旅をしながら歩く時の自動演奏は穏やかで軽やかで、いくらウジが険しい道に呼吸を乱したとしても揺らぐことすらなかったけれど、2人で過ごす夜の自動演奏はダメだった。
だから時々ウジは、そんなことがあった日の翌日は不機嫌だった。
恥ずかしからかと思ったけれど、ただただ悔しかったかららしい。もうその技術は匠と言われるほどらしいのに、その時だけは制御ができないからと。
激しすぎる自動演奏にそのうち苦情だって来るかもしれないと覚悟をしてたのに、結局どこからも苦情は来なかった。その理由を知るのはもっと後になってからだったけど、次の春、なんでかホシたちの暮らす場所では、ベビーラッシュが起きていた。
実家では姉に4人目の子どもができて、長らく子どものいなかった夫婦とかにもできて、時折2人で町で泊まる家の近くでも、次々と子どもが生まれてて。
きっとウジの自動演奏は、そんな効力があるんだろう。素晴らしいのか恐ろしいのかは謎だけれど、でも誰一人困ってはいなかったから問題ないはず。
子どもはどれだけ生まれてもいい。一人では育てられなくても、誰かが一緒に育ててくれるから。
そしてそれは動物たちも同じだったようで、2人と一緒に旅をした動物たちは皆、次々と子どもを成していく。
しばらくはバレないだろうが、多分そのうちバレる。
ホシがそう言えば、「それまでには、どうにかする」とウジは言う。でも多分無理だろう。
「俺たちのとこにも、来たらいいな」
何をとは言わなかったのに、ウジは気づいたんだろう。無理なのは承知だったはずなのに、小さく「うん」って言ってくれた。
「風が運んでくるかもしれない」
そうもウジは言ったから、ホシはちょっとだけビビったけど。本当になりそうで。
でもそうなったらそうなったで、構わない気もした。
白飯はうまく炊くのにそれ以外の料理はあまりうまくないウジは案外不器用だけど、ホシと一緒に子育ては頑張ってくれそうだから......

風に旋律17

子どもが育つのは早い。
ホシはウジが嫁に来たのはつい最近のような気がしてて、まだまだ新婚のつもりでもいて、まだ2人で歩く時に手を伸ばせば、ウジはその手を取ってくれるってのに。
姉の3番目の子は、両の目が見えないというのに音叉を使って器用に対象物までの距離を測るようになっていた。
見えないだけに耳も良い。足下の小石に気づかないこともあるけれど、そんなの見えてたって見てない奴は多い。それを考えたら何も問題ないらしい。
時々ウジのところまで来て、楽器の鳴らし方を習ってた。
元から家族の中では可哀想にだなんて気持ちはなかったけれど、ウジほどではないにせよ、楽器を鳴らせるようになれば、羨ましがられることの方が多くなるだろう。
なにより最近では、ウジの音を頼りに動物たちが移動していくから。

「お前、嫁は?」

ホシはよくそう聞かれる。いつだって一緒にいるからか、ウジが側にいないと不思議そうに聞かれることが多い。
たまに離れることはあるけれど、大抵はそんな時ウジは、飯を炊きに行っている。
相変わらず白飯が大好きで、自分のために白飯を炊くから。おかげでホシだって飯が炊けるようになった。ウジはめんどくさがって白飯だけで終わらそうとするから、ホシがせっせとおかずを用意する。
似た者同士と言われることもあれば、真反対だなと言われることもある。
欲なんて何一つなさそうに見えて、与えられた仕事を地味にこなすだけに見えて。
ウジはいつか新しい土地に行こうと言う。

お前だけいればいいよ......みたいな風情に見える時もあるっていうのに、ウジはホシのことを真正面から見て、「お前の世界はもっと広い」とか言う。
あぁでも一緒なら、どこにいても幸せだろう。

ホシの嫁は今日も風に旋律をのせる。

The END
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