「なんという禍々しさ。神すら呪うつもりか」
芝居かかった言葉を口にした男は、芝居でない証拠とでも言うように、火のついたランタンをウォヌに向かって投げつけた。
海辺の町だから、海風が一年を通じて強いのに。火が山にでも広がったらきっと誰も止められないはず。
ウォヌがそう思って視線を山に向けるのと、投げつけられたランタンから飛び散った火が、草木に燃え移ったのはほぼ同時だった。
「見たか。人の心を惑わすものは、火すら操るぞ」
ウォヌを害する前に、まともな人間なら火を消そうとしただろう。でもそこにいる人間は誰も、山が今から燃えるかもしれないというのに、ウォヌのことしか見てなかった。
でも、ウォヌはもう傷ついたりしない。太陽のようなミンギュが、いつだって少しぐらいは良いことがあるよと教えてくれたから。どんな時でも笑っていれば楽しくなるとも教えてくれたから。
ほら今だってミンギュがいないから、もしもここがウォヌの最後の場所になったとしても、ミンギュは助かるってことだから。
ウォヌは笑う。滅多に見せないその笑顔に、思わずウォヌを弾劾しようとしていた人たちの足が止まったほど、それは綺麗だった。それぐらいウォヌは、ミンギュを思って幸せそうに笑ったから。後ろにはもう下がる場所もなくて、その向こう側は崖で、下には海でもあればまだ飛び込めたかもしれないけれど、あるのはただの堅そうな土だけだと言うのに......。
呪いがやって来た日
ミンギュはその日、長いこと働いてた店をクビになった。
水商売は験を担ぐことが多いし、禍いに関しては驚くほどに嫌う。だけど店のNo.1で、売上も人気も不動だと言うのに、ミンギュをクビにするなんて......。
唖然とするミンギュにオーナーは、「呪いなんて引き受けやがって。とりあえず呪いは追い出せ。それからお祓い行ってどっかの霊権あらたかな海でも山でも行って禊ぎが終わったら戻ってこい」とも言ったから、やっぱりミンギュのことはそれなりに大切に思ってくれてはいるんだろう。
クビになったっていうのに、それが嬉しくて笑ったミンギュは心配する仲間たちに、「じゃぁな」って言って店を後にした。
しばらく働かなくたって、暮らしに困ることはない。
派手に見えて地味な暮らしをしているからか、多少のんびりしたってしばらくは大丈夫なはずだから。
でもその日、ミンギュは長く暮らしたマンションも追い出された。隣家が火事になったから......。
呪いとは、言わなかった。
それこそ夜の世界でつきあいの長いヌナが、やっかいな男に引っかかって困ってると言ったから、人助けなつもりでその男を預かっただけ。
家もなくて、行くところもなくて、男はヒモとして暮らしてるっていう、最初に会った時には笑いもしなければ表情も動かなくて、無愛想に見えた。
別段家に居座ってる訳でもなくて、次の場所さえ指定すればちゃんと出て行ってくれるというから、ヒモはヒモでもプロのヒモなのかもしれない。
行く宛はちゃんと探すから、とりあえず預かってくれって話だったから、ミンギュは気軽に引き受けた。
でも店のオーナーもこの街に長く暮らすママたちも、その男が呪いだって一発で言い当てたけど。
店の外で大人しく待ってた男は、ミンギュが荷物を担いで出てきたのを見て、少なからず何かを察したのか、それともこんなことは日常なのか、「ごめん」と言った。
クビになりはしたけれど、自分を否定された訳じゃない。だからミンギュは笑った。
はじめて聞いたその声が心地よくて嬉しくなったってのもあったし。
「名前、ごめんちゃんとまだ聞いてなかった。俺はキムミンギュ 。よくある名前だけど、気に入ってるんだ」
そう言って生まれた年も当たり前のように伝えたら、目の前の呪いと呼ばれた男は普通に名乗ってくれた。生まれた年も。
「ウォヌヒョンって呼んでいい?」
ミンギュが笑ってそう聞けば、戸惑いつつもウォヌは頷く。
クビにはなったけど、ミンギュには1人ヒョンと呼ぶ人ができた。だからやっぱり笑って、「じゃぁ帰ろう」って言えば、ウォヌはちょっとだけ驚いていた。それでもミンギュの後ろを着いてきたけど。
足音も立てずに歩く。まるで猫みたいだと思えば、いっときのこととはいえ同じ部屋で寝泊まりしたとしても、きっと邪魔ではないだろう。
誰かと暮らすなんて久しぶりだと、ミンギュはまた笑う。
それから家に帰ってラーメンを3人前作って2人で食べた。着替えも何も持ってないウォヌにミンギュは新しくないけどって言って自分のスウェットを貸す。
身長はそれほど変わらないのに、なんとなくズボンの下、足首が思いのほか見えていてちょっとムッとする。でも予想通り、ウォヌの存在は邪魔にはならなかった。
きっと朝起きた時、まるで夢だったんじゃないかって思うぐらい気配を消してそうだと思いながら、やっぱりミンギュは笑いながら眠りに落ちたのに、そんな朝はやってこなかった。
隣りが火事になったから。
遠くから「火事だッ」って声が聞こえた。でもそれが現実で起きてる出来事だとすぐに判る人なんて滅多にいないだろうし、消防の音が鳴り響いてても、まさか隣りが燃えてるとも思うまい。
「なに? どこで騒いでんの?」
あちこちから声が聞こえてきたからミンギュは起き出して、半分以上寝てる状態で窓に手をかけてその熱さに驚いた。目の前はもう真っ赤で、熱は窓枠にも伝わっていたんだろう。きっともう少ししたら熱で窓が割れるはず。
「火事だッ」
遅まきながらミンギュもそう叫んだけれど、1人で逃げようとして、部屋にはウォヌがいたことをギリギリで思い出した。
「起きろッ! 火事だッ、逃げるぞッ!」
ウォヌはまだ寝てるのか、一瞬目を開けたのに、そのまま閉じてしまった。
ほぼ同じぐらいの大きさのはずなのに、火事場の馬鹿力なのか、ミンギュはウォヌを担いで逃げた。
マンションの前は消火活動のせいでビショビショで、担がれていたから裸足のままのウォヌと、サンダルをつっかけただけのミンギュは、少し離れた場所で座り込む。
警察の人もいたけれど、動きが慌ただしくなかったのはミンギュが最後に確認された住民で、後はもう無事が確認されていたからだった。火事の原因も見てた人がいて判ってて、事件性もないらしい。だから多分火事の現場にしては、マシな方だったんだろう。
同じマンションから逃げてきた子どもたちも、道路の端っこに座り込んでいたけれど、近所の人から食べ物を貰ってたりして悲壮感はなかった。
結局ミンギュの部屋はビショビショにはなったけど燃えなかった。それでも出て行くことになったのは、焼け出された家には子どもたちがいて、同じ大家さんで、すまないと頭を下げられたから。
大した家財道具もないけれど、乾かして無事なら使っていいし、ダメなら捨てて欲しいと頼んで、持ち出したのは濡れそぼった2人分の靴と着替えと、防水だったから助かったスマホと。
マンションの前でウォヌは微妙な顔で、さっぱりした顔のミンギュを見ていたけれど、「気の遠くなるような片付け作業をしなくて良いって、良くない?」と言えば、不納得そうな顔をしていた。
行くあてもない。帰る場所もない。でもなんだか晴々しい。こんな気持ちはきっと誰にも理解されない。
どこに行こう......。きっと5年前なら途方にくれて、捨てられた仔猫みたいな感じで、情けない姿を見せたかもしれない。でも今は、さぁ、どこに行こうか。そんな気分でいた。
とりあえずはコンビニでも行こうと、ウォヌに声をかけようと振り返れば、ウォヌはもう、こちらに駆けてくる人影に気づいてた。
ハイヒールなのに爆走してきたヌナは、化粧が崩れてるのも気にせずに、「ケガは? どこも焦げてもない?」って聞いてきた。
「焦げてないってなんだよヌナ」
ミンギュが笑えば、ヌナも笑いかけたけど、でも泣きかけでもあった。
「ごめん。私、呪いだなんて知らなくて」
ヌナは何度も謝って、押し付けたつもりはなかったんだと、すぐにどこか、押し付けられる相手を探すからって言った。
意味わからずにミンギュが問えば、呪いは決して自分からは出て行かないけれど、次の行き先を用意すれば素直に出て行ってくれるらしい。
それはまるで、不幸の手紙とか、呪われたビデオを誰かに見せるのと同じようなものなのかもしれない。
ウォヌを見れば、動こうともせずにそこにいるだけだった。
きっとヌナの言った通りなんだろう。
目の前ではヌナが必死に、自分のスマホの中の、知り合いという知り合いの名前を調べてる。でも「呪い」と判ってから、それを押し付ける相手を探すのは、なかなかに難しいものがあるんだろう。
「ヌナ、ヌナ。今までの俺の借りっていう借り全部、チャラにしてくれるだけでいいよ」
そう言えば、「アンデアンデ」とヌナが言う。
自分のために必死になってくれてるその姿がもう嬉しいんだと言えば、ヌナはやっぱり「アンデ」って言ったけど、最後には「ミアナダ」と謝ってくれた。
でも............。
食えない時に、食べさせてくれたラーメンの味は今でも忘れてない。
売上があと少し足りない時には、いつだって客を連れて遊びに来てくれた。
「俺が食うにも困って頼ってきたら、その時はまたラーメン驕ってくれるだけで、十分だから」
ミンギュがそう言えば、ヌナが心配そうな顔をする。どこかに行ってしまうのかと聞くから、「おん。うちのオーナーにも言われたもん。お祓い行ってどっかの霊権あらたかな海でも山でも行って禊ぎして来いって」と伝えた。その前に「呪いは追い出せ」と言われたことは黙っておいたけど。
何も持ってないのに、「じゃあ行くよ」と言えば、「荷物は?」と聞かれた。
持ち出した濡れたジャケットを見せれば、他の荷物の惨状も理解したんだろう。ヌナが財布を取り出して、中にあったお金を小銭も含めてありったけを渡してくれた。
ほら、そういうところ。
当然のようにくれる優しさに、どれだけミンギュは今まで助けられてきたことか。
心がそれだけで、どれだけ救われてきたか。
だからやっぱり、ミンギュは「ヌナ、コマウォ」って言って笑う。そうしたらヌナはもっと泣きそうになってたけど。
じっと見てるだけだったウォヌを促して歩き出せば、ヌナは心配そうに見てた。でもミンギュがいつも通りだったからか、「あんたは大事な時にうっかりなんだから、気をつけなさいよッ」と後ろから叫ばれた。
やっぱり笑う。
それから「俺もそう思うッ」って、叫び返したミンギュがいた。
呪いといても笑う男
ウォヌは、色んな人間を見てきた。それこそはじめて「お前は呪いそのものだ」って言われた日からずっと、誰かの不幸と共にあったようなものだから、薄暗く笑う人間や狂ったように笑う人間なら何人かはいたけど、こんなにも楽しそうに笑う人間ははじめてだった。
どこに行くのか。判らないけれど、ウォヌのことを誰かに押し付けるつもりはないようで、しょうがないからウォヌはミンギュに着いていく。
「コンビニ寄ろう。ヌナから小銭も貰ったし。でも1+1のを選んで」
ペットボトルの水を手に取れば、同じものをミンギュも手にして支払いを済ませる。
「俺らしばらくは、1+1だから」
貧乏だと言いたいのか、それともウォヌはオマケのようなものだから、ちゃんとした1人分を買う権利なんてないと言いたいのか。
でもミンギュは歩き続けながら、なんでか「1+1って凄いよな」って真剣に語るから、マイナスな意味で使った訳ではなかったようで。
当然のようにウォヌに選ばせてもくれたから、それは最初からそうだったんだろう。
「どこまで歩くんだ?」
あまりにも長く歩くから、ウォヌは思わずそう聞いていた。
話しかけられれば答えることはあっても、自分から誰かに話しかけたのなんて、いつぶりだろうか。年単位でなかったかもしれない。
ミンギュは当然そんな珍しい現象が起きてるなんて知らないから、「んー、とりあえずもう少し歩く」とか、のほほんと答えるだけだった。
何かを考えてるのか、ミンギュはずっと歩いてく。ウォヌは疲れてきて、途中見つけたバス停の椅子に座った。
「ここで待っとく」
そう言えばミンギュは全然気にも止めずに、「わかった」と言って歩いていく。
このまま置いて行かれてしまうかもしれない。
そんな予感はあったけど、そうしたらこのまま誰かに拾われるのを待てばいい。
1人でバス停で30分はボーッとしてたかもしれない。
ミンギュは一度戻ってきた。目の前を通って元来た道を歩いてく。
ウォヌが座っているから、果てしなく歩くことは諦めてどうやらバス停の周りを往復することにしたらしい。
置いて行かないんだ......。
それから小一時間は待ったかもしれないけれど、いきなりミンギュは走って戻ってきたと思ったら、「俺ら、済州行かない? ほら、なんか有名な山あったじゃん。何もかも祓われそうじゃない?」と一気に言った。
どうやら真剣に行く場所を考えていたらしい。
飛行機で行くのかと思ったら、とりあえずバスに乗るという。
貧乏旅行だってミンギュは笑う。
それからまたコンビニによって、1+1でサンドイッチとバスの中で食べるお菓子を買った。
果てしない旅に出た日
飛行機にだって乗れなかった訳じゃない。
でもウォヌが「大丈夫かな。飛行機。落ちないかな」って呟いたから、ミンギュは迷わずバスで行くことにした。
だってバスならまだ地に足がついているから。ミンギュは高いところだけが、唯一苦手なものだった。
まぁでもその乗ったバスの車軸が折れて高速道路で死にかけたけど、不幸中の幸いで誰もケガはしなかったし、お詫びだと言ってバス代が丸ごと帰ってきた。
「なんか、俺らラッキーじゃない?」
ウォヌはミンギュの能天気な言葉に呆れていたけれど、一瞬あの世は見えたけど助かったんだから問題ない。
思わずミンギュは怖すぎて隣りにいたウォヌにしがみついたけど、ちょうどウォヌに覆いかぶさったかのように見えて、ウォヌは自分のことを守ってくれたとでも思ったのか、「ありがと」って言った。
その誤解は解かないでおいた。
夜の商売をしてたから、なんだって結果が全てだみたいな考え方だって、ちゃんと持っている。お前は肝心のとこでヌけてるだとか、甘ちゃんすぎるとか、優しすぎて身を滅ぼしかねないだとか散々言われてきたけれど、まだ滅ぼしてもないからきっと大丈夫だろう。
警察の人にも散々な目にあったなと同情されたけど、そのお蔭で昼にジャージャー麺を驕ってもらった。
バスが予定通りなら、その日のうちには船に乗ってたはずなのに、まだ道半ば、半分も進んでいなかった。それでも予定なんてないから、何の問題もなかったけれど。
その日はだから、チムジルバンで身体の疲れを取りながら夜をやり過ごすことにした。
でもゆっくりできたのは、愛妻の浮気相手を殺しに来たと、包丁を持ったおじさんが乗り込んでくるまでだったけど............。
「お前か、俺の女房を誑かしたのは」
おじさんはそう言って、包丁をウォヌに突きつけていた。
ミンギュはその時悟った。
ウォヌが呪いかどうかはもう別にして、この旅は果てしないぞ............って。
呪いは相殺されるのか
ウォヌの前には、包丁を持ったおじさんがいた。
人を殺すつもりで来たというから多少は興奮してるんだろうが、それでも首筋だって赤かったから、酒も大分入っていたのかもしれない。
包丁は自分に向けられてはいたけれど、ウォヌはこれといって慌ててもなければ怯えてもいなかった。
刺される時は刺されるし、きっと死ぬ時は死ぬ。
「アジョシ、俺たちは今日ここに着いたばかりだから」
ミンギュがそう叫んでいたけれど、おじさんは聞いてもいなかった。
奥さんの浮気相手も知らないくせに、相手を殺そうとするなんて計画性がなさすぎる。でも本気だったようで、おじさんは包丁を勢いよく突き出してきた。
そのまま、何もしなければ多少なりとも包丁の切っ先はウォヌの身体の中に入っていただろうに、後ろから抱き抱えられながら身体を引かれたから、ウォヌの身体には傷一つつかなかった。その代わりミンギュは左腕を切ったけど。
今度も警察は来たし、救急車も来たし、血を見て驚いたおじさんはその場でおいおいと泣くし、最終的にはおじさんの愛妻も来た。
物凄い若い嫁でも貰ったのかと誰もが思っていたけれど、おじさんと並んでも普通に見える、おばさんだった。美魔女という訳でもない。
チムジルバンのおじさんは、「やー、どうやって浮気するってんだよ」と叫んで怒っていたけれど、人間の魅力はどこにあるかは判らない。
おじさんにとってのおばさんが、誰にも取られたくない最上の相手なんだろう。
おじさんとおばさんと、最終的には娘さんも来て頭を家族で下げていた。警察の人は「本当なら殺人未遂で捕まったっておかしくないんだぞ」と言っていたけれど、早々にミンギュが「俺がドジっただけだから」と言ったので不問にされることになった。
当然チムジルバンは無料になったし、済州に向かうバスのお金も出してくれたし、バスに乗る時にはお弁当まで買ってくれたとミンギュはテンション高く喜んでいた。
呪いは確実に発動してるっぽい。それは殺されかけたから確実だったけど、大抵は一緒にいる誰かがそれで不幸になるのに、ミンギュは全然気にしていなかった。
「相殺されてるから、全然いいじゃん」
あっけらかんとミンギュは言う。
いや、本当に相殺されてるかは判らない。火事も入れたらもう3度も死にかけた気がしないでもないから。
お前といたら、人生が幾つあっても足りない。と言われてばかりの人生だったのに。
「なんか、運が良い気がするから、宝くじでも買おうかな。俺、前に占いで23億いつか手に入れるって言われたことがある」
自慢気にミンギュが言う。
「俺、前にお前のせいで20億が無くなったって言われたことがある」
ウォヌがそう返せば、ミンギュは驚いていた。
言葉の内容になのか、突然話したことになのかは判らない。
「でもそれなら3億は余るじゃん。良い肉時々食って楽しく暮らすには十分じゃん」
呪いは相殺されるのか、正直判らない。
でもミンギュはまだ一度も、ウォヌのことを恐ろし気に見たり、遠ざけようともしなかった。
何もなかったかというと、嘘になる
乗り直したバスの中で、泥棒だったという人がいた。
家出少女がいて、身売りをしてでもいいから家には帰りたくないと言っていた。
会社を首になったおじさんは、まだ家族にそれを言えてないと言っていた。
なんでそんなことを知っているかというと、長い時間バスの中に拘束されていたから。
バスに乗ってから最初のトイレ休憩の場所で突然乗り込んできた男の人に、なんでかバスジャックをされて、そこからバスは微動だにしなかった。
元々追われていた人だったからか、バスは走ることもなくその場で警察に取り囲まれて、ただただ時間だけが経過した。
トイレ休憩後で良かったよなって小声でミンギュが言えば、ウォヌは呆れてた。
いやもう色んなことがありすぎて笑えると言えば、ウォヌは首を振るだけだった。
まぁバスジャック犯も一緒だから、そんなに和やかに話せたりもしない。
「あんたより、俺の方が絶対不幸だ」
そう言い出したのは会社を首になったというおじさんで、バスの外では犯人の元恋人が説得に来るというテレビドラマみたいな展開になっていたけれど、結局犯行動機は彼女に振られたからって感じだった。
「うちのパパは、私の家庭教師に手を出した」
突然そう言い出したのは家出少女で、聞けば家庭教師はまだ大学生だという。
「若い頃、泥棒をしてた。罪を償うことなく生きてきたから、全部それが子どもにのしかかった」
真面目そうに見えるシュッとしたおじさんは、子どもさんが病気になったって言っていた。
なんでか全員が不幸自慢をしなきゃいけない空気で、バトンがミンギュのもとにも回ってくる。
「うぅぅぅぅん。それほどの不幸でもないけど、子どもの頃に親に捨てられたぐらいかな」
ミンギュがそう言えば、「結構な不幸だろ。そりゃ」って誰かが言った。
「でも親父がカッコ良くてさ。このまま家族で固まって必死に生きても、行き着く先は無理心中だって言ったんだよ」
捨てられたのは事実で、それを知ると誰もが同情的な視線を寄越すけれど、ミンギュはあの時の父親の判断は素晴らしかったと真剣に思ってるし、本気でカッコいいと思っていた。
何もなかったかというと嘘になる。苦労はそれなりにした。でもいつだって誰かは助けてくれて、こうやってデカく成長したのは、誰かの優しさがあったからで.........。
ミンギュがあっけらかんとしてるからか、それほどの不幸として認識されなかった。
いやでも順番がウォヌにうつって、ウォヌの言葉が衝撃的すぎて、ミンギュの話なんて一瞬で霞んだだけだけど。
「弟を殺した。そうしたら母親に殺されかけた。祖父母に育てられることになったけど、迎えに来る日に橋が落ちて、祖父母共に死んだ。救護院かどこかに預けられてる間に父親が裁判所に申請して、家族関係を抹消された。預けられた救護院は放火されて燃えて、大勢が死んだ。気づけばお前は呪いだって言われてたけど、俺も別に、それほど不幸じゃない」
バスの中は異様な沈黙に支配された。しばらくして誰かが「作り話だろ」って言ったけど、事実は誰も判らない。
でもまぁ、時間が経って疲れてきたからか、バスジャック犯はしばらくして警察の人に説得されて出ていった。
「え? 君たちまた?」
警察の人にはそう言われたけれど、別に、好きで巻き込まれている訳でもない。
結局、警察の人に被害者として事情を聞かれたけれど、もうどこの誰かとかは聞かれなかった。一応病院にも連れていってくれたけど、血圧を測られたぐらいでピンピンしてた。
そしてウォヌと2人、パトカーに乗せられた。
バス停まで親切に送ってくれるのかと思ったら、パトカーは走り続け、「とりあえず俺らの管轄外までな」と結構長い距離を送ってくれた。
さすがにパトカーはハイジャックされることもなかったし、日ごろから整備されてるからか急にパンクすることもなかった。
まぁ勝手に流れ続ける車内の警察無線からは、『今日は厄日か? 橋の爆破予告が入ったぞ』とか、『天変地異の前触れなのか? 爆破予告のあった橋が崩れたぞッ』と、不穏な情報は入り続けた。
でも爆破予告のお蔭で通行止めにしてたから、突如崩れた橋で誰かが死ぬことはなかった。
それを不幸中の幸いと捉えるか、大ラッキーと捉えるか、神様の思し召しと捉えるか、呪いと捉えるかは、きっと人それぞれだろう。
ミンギュは笑って、「俺ら、やっぱりラッキーじゃね?」と言う。
ウォヌは黙って首を振るだけだったけど。
もっとそばに行きたいのに
そんなことを思ったのは、いつぶりだろう。いやもうきっとそれは、弟が生まれる前まで遡るかもしれない。
でもウォヌは今、物凄く久しぶりにそんなことを思っていた。
見た目で人を判断して、結果ウォヌに手を出そうとした人間は男も女も多かったけど、結局呪いを目の当たりにして手を出すどころじゃない人間ばかりだった。
だから正直、無理やり引っ張られたことはあっても、手を繋いで引かれた記憶なんてない。
なのにミンギュは突然降りだした雨の中、ウォヌの手を握って、そのまま走り出した。
きっとそこに意味なんてない。
ただ、濡れたくなかっただけで。でもウォヌにしてみれば、どれぐらいぶりの人肌だっただろう。
呪いと呼ばれるようになってからも長い。誰かと手を繋ぐなんて、諦める以前にもう考えることすらしてなかったっていうのに。
でもその手が離れてしまえば、その感触も温もりも一瞬で消えた。なんだか幻みたいな感じで、夢でも見たんじゃないかって感じ。
突然降り出した雨は天気予報を裏切って降り続き、風まで出てきて船は出ないという。
だから2人してまたチムジルバンに飛び込んだ。
ラーメンぐらいはあるだろうと思ったのに、何もなかった。しょうがないからお得意のコンビニに行こうとしたのに、その頃には高潮とあいまって町中に水が入り込んできてる所で、町中にはパトカーが出てて、地下室の住人たちは家を出るようにって放送しながら走ってた。
「は? 冗談だろ?」
ミンギュが驚いていた。もはや災害が起きようとしていたからかもしれない。
きっと振り返ったミンギュは、遅まきながらウォヌのことを得たいの知れない何かを見るような眼で、見るのかもしれない。誰も自分から呪ったことなんてない。もうとっくの昔に諦めた言葉もまた、久しぶりに思い出したウォヌだった。
ミンギュが振り返る。
ウォヌと目が合う。
そしてミンギュが口を開く。
あぁほら、次に出てくる言葉はきっと............。
その口から聞きたくなくて、でも目を閉じてしまうのは怖くて、久しぶりに触れた人肌の感触は温かくて。でも雨はもう、ザーザーと、尋常じゃないぐらいに降り始めていて。
「俺ら、何食えばいいの?」
「は?」
思わず間抜けな感じの声が出たウォヌだった。
ウォヌがこの一瞬でどれだけ心がギュッとなったかも知らずに、ミンギュは情けない顔で「俺、食べ物があって我慢するのはできるけど、ないのはダメなんだよ。唯一我慢できないのそれかも」とか必死に喋ってる。
でも今外に出れば確実に膝下は濡れるし、場合によては危険だろう。これから1週間飲まず食わずだと言われれば話は変わってくるけれど、ひとまず明日の朝まで我慢する程度なら、寝てしまえばいい。
それほど難しい話でも無さそうなのに、「どうしよう。食べれないと思うと食べたくなるのって、どういう仕組みなんだろう」とミンギュは嘆き続けてた。
ウォヌは呆れて、そんなミンギュを置いてチムジルバンの中に戻ることにした。
「ほら、諦めろって」
そう言って、ミンギュの手を取って引っ張れば、ミンギュは情けない顔をした状態で、それでもしぶしぶウォヌについてくる。
もっとそばに行きたいと、言ってもいいのかもしれない。もう長く長く、誰かに期待することなんて忘れていたのに......。
垂直避難が導いたもの
結局、雨はそれから3日も降り続き、警察だけじゃなく軍隊まで出て救助される人もいた。
ミンギュとウォヌはチムジルバンに居続けている。
食べるものがなくてクラクラしていたけれど、2日目には配給があったから助かった。
避難は年寄りと子どもが優先だからと、ミンギュたちは残されたけど、店の中にも水が入ってきて、垂直避難だと言われて2人は二段ベッドの上の段に2人で避難した。
「垂直避難って、2階とか3階に逃げるんだと思うけど」
ウォヌが言う。ミンギュもそんな気はしてた。
でもまぁ、命の危険があるという感じでもなかったから、まぁいっかと横になる。
デカい2人が一緒に寝るのは狭苦しいけれど、嫌でもなかったし......と考えて、「あ、俺は全然大丈夫だけど、ウォヌヒョンは嫌だった? 一緒に寝るの」って聞けば、「嫌じゃない」って明確な答えた返ってくる。
気づけば普通に話してた。
多分チムジルバンに閉じ込められたあたりからかもしれない。
「食欲が一番強い欲だと思う」ってミンギュが言えば、「性欲じゃないか」と答えてくれたし。
それから2人で、食欲と性欲と睡眠欲で言えばどれが一番我慢できるかって話になり、死にそうになったら性欲が勝つだろ、子孫を残そうっていう本能が働くからって話になった。
でも過去に死にそうになったことはあったけど、ミンギュは別段誰かを押し倒そうって気持ちにはならなかった。
そう言えば、「俺もそうかも」ってウォヌも言った。
「ゲームしていい?」
スマホを指差して言うから貸してやれば、「ダウンロードしていい?」とも聞いてきた。
「課金以外なら何してもいい」
そう言ったら、「課金しなきゃ、ゲームは勝てないじゃん」とウォヌは言ったけど、そんなことはない。
「俺、課金て言葉が唯一許せないかも。それに課金なんて堕落の第一歩だし」
力強く言ったのに、ウォヌは「わかった」って言っただけ。それからはミンギュの隣りでずっとチマチマとゲームをしてた。
「ほらこれ、課金したら500ウォンもしない奴だけど、俺は課金をしないから、頑張って58000個ジャムを作ってるとこ」
なんだか地味に大変そうなことを説明してくれたけど、ミンギュはそれでもやっぱり、課金は好きじゃない。
「ケチだからじゃないからね」
そうも言ったけど、やっぱりウォヌは興味なさげに「ふ〜ん」って感じだった。
ミンギュはなんだか、眠かった。まぁベッドだし、配給されたものも食べたし、何もすることがないし、寝るぐらいしかすることがなかったからかもしれない。
横でチマチマゲームを続けてるウォヌの気配が程よく邪魔じゃなくて、体温も心地良くて、ついうっかり、寝てしまった。
一応垂直避難中だっていうのに。
「なぁ、やっぱり俺たちの垂直避難って、間違ってたと思う」
どれぐらい時間が経ったかは判らないけど、ウォヌがそう言った。
「58000個、ジャムできた?」
目を擦りながら聞けば、「まだ、28960個しかできてない」って普通に答えるから、「ふーん、凄いじゃん。もうすぐ半分じゃん」ってミンギュだって普通に答えたっていうのに、次のウォヌの言葉に飛び起きた。
「うん。もうすぐ半分。だけどさ、部屋の中には半分以上水が来てる。俺らのとこまで水が来るのと、入口が水で塞がれるのと、どっちが先かな?」
「は?」
ミンギュが飛び起きて見たのは、本気で室内が水だらけになってる光景だった。
そして遠くの方で、「誰か、誰かいますかッ!」って叫んでる声も聞こえてきたほど。
当然ミンギュは「ここにいますッ! 2人いますッ!」って叫んだし、「ウォヌヒョンッ、もっと早く起こしてよッ」とも言ったけど、ウォヌから返ってきたのは「あ、29000個いった」っていうものだった。
ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、助かったら課金してやろうとも思ったミンギュだった。
海が繋がっている世界
遠い外国にも繋がっているけれど、きっと世界の果てにも繋がっていて、それから天国とか地獄とか、そういう所にも繋がっていて、もしかしたら地下帝国とかにも繋がっているかもしれない。
1人じゃ何一つできない。そういうことも教えてくれる。海はそれぐらい大きくて、人間はちっぽけで。
救助隊のボートに乗るというはじめての経験をしたっていうのに、ミンギュはチムジルバンがタダになったことを喜んでいた。
避難場所に移動した次の日には太陽が戻ってきて、そうしたらあっさりと町の中からは水が引いた。それでも泥やゴミが山ほど町の中に残っていて、被害は大きそうだった。
ミンギュは手伝って行こうかって言ったけど、ウォヌは首を振った。
肉体労働がしたくなかった訳でもなく、ボランティア的なものが嫌いだった訳じゃない。
きっと早く自分が立ち去った方が、もっと酷い目にはあったりしないはずと思っただけのこと。
「俺がいなくなるのが、一番、役に立つと思う」
事実だからそう言った。
「判った。じゃぁ困ってる人がいたら助けてあげて、遭遇しなかったらそのまま行こう」
わざわざ誰も助けてくれとも思ってないのに手を出す必要はないからねとミンギュが笑う。
でも重たいゴミを運べなくて困ってる人がいたら、ミンギュは「ちょとだけですけど手伝いますよ」って言って、気軽に手を出していた。
だから2人が海の前に立つまでには、それほど時間はかからなかった。
大きな船もあったし、小さい船もあった。
でも今回の件で、とりあえずはここ2日は船は出ないって話だった。
それでも2人が海を渡れたのは、何故か軍籍の船に乗せて貰えたから。
島に取り残された人たちを運ぶために出すその船に、医者やボランティアも乗せて行くという。そこに2人も紛れ込んだだけ。
普通の船なら沈みそうだが、さすがに軍籍の船なら丈夫だろうってミンギュは笑ってた。しかもタダらしく、そこが一番ポイント高いと上機嫌だった。
船の中にも入れたけれど、ウォヌは甲板にいて、遠くに見える島が近づいてくるのを見てた。ミンギュは船の中をウロウロして、飲み物だとか食べ物だとかをどこかからか貰っては、ウォヌのもとにも届けにきたけど。
まだ2人は連れのままで、ミンギュは気軽にウォヌの髪とかにも触れてくる。
「甲板に居過ぎたから、髪が塩でギシギシ言ってる気がする。向こうについたら、やっぱり最初に、チムジルバンに行こう」
もう2回も続けてえらい目にあっているというのに、ミンギュは全然懲りてないようだった。
でも確かにウォヌの髪はギシギシと言う。
ミンギュのものだというのにそのスマホはもうずっとウォヌの手の中にあって、今は花を集めてる。
「幾つ必要なの? それ?」
覗き込んできてそう聞くから、「20万個」って言ったらのけ反っていた。
でもこれがないと「虹色のマントは手に入らないから」って言えば、「虹色じゃなくてもいいじゃん別に」と言われたけれど、ゲームの世界だからこそ、それは欲しかった。
本物じゃない世界でぐらい、欲しいものを手にしたいんだと言えば、ミンギュは課金してくれるかもしれない。言わなかったけど。
まぁ手に入れたって、スマホですらミンギュのものだから、それは結局自分のものではないんだけど............。
何も持たずに生きる人
ウォヌの手にあるのは、ミンギュのスマホだけだった。
今はちまちまと、花を集めてる。
虹色のマントが欲しいらしい。赤とか青とか黒とかなら、時々落ちてたりするらしい。
地味なゲームのしすぎでミンギュのスマホは謎に熱を持ってそうだったけど、そこはあまり気にしなかった。
船の中をあらかた冒険して、有り難くもいただけるものはいただいて、ウォヌの横に戻ってみればウォヌはまだ花を集めてた。たぶん明日も明後日も、1週間後ぐらいまでは集めてるのかもしれない。何せ数が数だから。
「スマホ、俺がずっと持ってていいの?」
そうウォヌが聞く。別にどこからかかってくるでもないし、契約は一番安いやつだから、基本自分からかけることもない。
「好きなだけ使っていいけど、充電が切れるかもな」
充電が切れてしまえばただの物体でしかなくなるそれは、ミンギュの唯一の持ち物だったけど、それを落としたって痛くも痒くもないんだから、結局何も持ってないのは自分も一緒かもしれない。
海の上で、便りなく生きていることを実感する。
それでも特に不安でもないし、海風は心地良い。
でもウォヌの髪に手を伸ばせば、見た目と違ってガシガシだったけど。海風に当たりすぎたんだろう。
陸に着いたらとりあえずはチムジルバンに行こうと言えば、嫌な顔をされた。
三度目の正直で今度こそ普通に疲れが取れるだけの場所になるのか、それとも二度あることは三度あるって奴で、今度も何かあるのか。
でもそれは、別に大したことじゃない。
どれも自分たちが起こした訳じゃないし、危険地帯に自ら踏み込んだ訳でもない。
そこは誰もが癒しを求めて行く場所で、サッパリしたいだけなんだから。
それに万が一にも何かあれば、今度もタダになるかもしれないし。まぁちょっとはそんな気にもなったけど、決して望んでる訳じゃない。
できるならゆっくり寝たい。垂直避難とか考えずに。
逃げ場所を失ったのかもしれない
島について見れば、目の前には高い山が見えた。
どれを目指すつもりかは知らないが、どの山も高く見えるし、人がたくさんいた。
観光地でもあるからかもしれない。
「とりあえずチムジルバンに行こう」と言ったミンギュが珍しくも、「俺たち計画的に行こう」とも言った。
確かに計画性とは無縁な旅だった。
流されすぎというか、行き当たりばったりというか。
自分たちのせいではないとは言え、巻き込まれ過ぎた。
それが呪いだと言われればそれまでだけど、少しはミンギュだって懲りたのか、巻き込まれないための計画を立てるのかもしれない。
どんな計画を立てるのかと思ったら、ミンギュが言い出したのは、「観光客価格のものは絶対買わないから」だった............。
なんでか地元の人が買う店でだけ買い物すると豪語していたけれど、何の計画を立てているのかは謎過ぎた。まぁでも観光名所は山ほどあるし、旅行で財布の紐が緩んだ客目当ての店だって数多くあるだろうし、自分たちが目指す山だって、結局はアクティビティー的なものかもしれない。
でも問題はそんなことじゃなくて、ウォヌは思わず呟いていた。
「お前、ケチだろ」って。
「ヤーッ、そんなことないよ。買う時は買うし使う時は使うよ。でも観光客価格が買い物では唯一許せないんだよ」
それからもミンギュは必死に韓国客相手の商売がいかにぼったくりかを熱く語っていたけれど、一緒に行動をはじめてからこっち、買う時も使う時もほとんど見たことがないと言えば、「たまたまだよ。ほら、色々巻き込まれるから払うタイミングを逃してるだけで」とやっぱりミンギュは必死だった。
その必死さが面白くて、思わずウォヌは笑った。
自分の笑い声なんて、もう何年ぶりかってぐらい。
そんな貴重な笑い声を聞いたってのに、当然ながら気づきもしないミンギュは、「笑うな」と文句を言う。
あぁでも面白い。笑いすぎて、目尻から涙が零れ落ちたほど。
自分で自分の涙を拭うなんて、もう何年ぶりかってぐらい。
そんな貴重な涙を見たってのに、当然ながら気づきもしないミンギュは、「泣くほど笑うなって」と文句を言う。
必死になるミンギュを指さして笑いながら泣きながら、ウォヌは自分が逃げ場所を失ったのかもしれないと考えていた。
当然ミンギュはそんなこと、知りもしなかったけど。
山に登ると良いことがあるのか
きっとそれほど良いことはないだろう。現に今、ミンギュは死にそうになっているから。
「レンタルなのに、防寒具をケチるからだろ」
冬でもないのに、そこまで防寒具なんていらないと、確かにケチった。でもまさか凍死はしないだろうと思っていたけれど、凍死だってするかもしれないってぐらい、山の上は寒かった。
「ほら」
途中からそう言って、ウォヌが手を繋いで、さらにはその手を自分の防寒具のポケットに入れてくれたから、大分助かってはいたけれど、これで雨でも降ってくれば終わりかもしれない。と思っていたら、当然のように降ってきた。遠くでは雷すら鳴っている。
「山の天気は変わりやすいって言うだろ」
ウォヌがいっぱしの口を聞くけれど、山に登るのははじめてだって言ってたから、そんなの誰もが適当に言ってるのと変わらない。
「海の天気だって川の天気だって土手の天気だって、場所によっては変わりやすいわ」
そう言い返したミンギュだったけど、ガタガタ震えてるから全然強気には聞こえなかった。
「あぁもうほら」
とうとうウォヌは自分の防寒具を脱いで、それをミンギュに差し出した。
「ちょっとだけ貸すだけだから」
そうは言ったものの、本気で5分も経たずに今度はウォヌの方が死にそうになったほど。そりゃ身体だってミンギュよりウォヌの方が薄いんだから、寒さだって堪えるだろう。
慌てて防寒着を返して、防寒着ごとウォヌを抱きしめながら、ミンギュはウォヌに言った。
「ウォヌヒョンとりあえず、天に向かって手を差し出して、晴れろって言ってみなよ」って。
「は? お前バカだろ」
「バカなのは認めるけど、でも、試したことないでしょ?」
「試すはずないだろ」
「一回やっとこ。それで晴れたらモウケモノじゃん」
言ったミンギュだって本気じゃなかったし、言われたウォヌだって当然本気じゃなかった。でも寒過ぎて2人してバカになってたんだろう。
ウォヌはミンギュに抱きしめられながらも、両手を空へとさしだして、「太陽よ、あらわれろ」って芝居かかったような口調で言った。
その後は2人して、バカすぎると笑って終わりのはずだったのに、2人の前に太陽はあらわれて、雨が止んだ............。
山の上、まったくの2人きりって訳でもない。でもそんなふざけた内容を誰かに聞かれてるとも思ってなかったのに、しっかり聞かれてたし見られてた。
バカなことをしてる若者がいるな......ぐらいテキトーにやり過ごしてくれればいいのに、なんでかそれを見てた人は本人たちよりもそれを信じてしまったらしい。
「ラッキー。晴れてるうちに俺ら下山して、チムジルバンに行こうぜ」
ミンギュがそう言えば、ウォヌだって頷いて、2人して「太陽って偉大だよな」って言いながら足速に歩いた。
少し曇りそうな気がするたびに、ウォヌは「太陽よとどまれ」とか口にしていたけれど、それは特に真剣な口調でも態度でも全然なくて、そのうち「太陽、もうちょっとだけ頑張ってくれ」って感じの砕けたものになっていた。
でも太陽はずっとウォヌのその言葉をきいてくれて、2人の世界だけじゃなく、そこら辺もまとめて照らしてくれて世界全てを包んでいたけれど。
そんなの、誰も本気にしないはずだったのに。
神様はどこにいる
山で死にかけたけど、どうにかやり過ごしたし太陽も出てきて無事に下山もできた。
だから何も問題はなくて、後はチムジルバンに行って身体の芯から温まってそれから休息を取るだけだったのに、2人の前には高そうな車が止まった。
「良ければ私たちの話を聞いてほしい」
胡散臭さがプンプンしてるってのに、「地元の鮑料理の美味しい店を抑えてるんで」って秘書みたいな感じのおじさんが言ったら、ミンギュは「いいっすよ」って何も考えずに答えてた。
「何言ってんだよお前」
ウォヌは一応そう言ったのに、「だって親切な人たちが、話聞くだけで鮑食べさせてくれるって言ってるし」と、本気で言う。
まぁ判らなくもない。奪われるものは何も持ってない。守るものが何もないからビクつく必要もない。
あるのはウォヌもミンギュもお互いの身体ぐらいで、これだけは自分たちの意志がなければ動かないから。
それにいざとなったら逃げればいい。ここは自分たちが日頃から暮らす場所でもないから。
ただウォヌは極力誰かと関わりを持ったりせずに生きてきたから。
でも考えてみれば誰かの意志でまた別の誰かに押し付けられれば素直に移動してきたことを思えば、鮑ぐらい食べたっていいのかもしれない。
秘書みたいに見えるおじさんは、実際にはどっかの会社の社長だという。済州には時々来て勉強会に参加してるという。
長い話を聞いたけど、結局は自分たちのそばには神様がいて、そのせいで繁栄を続けてるっていう有難いはなしだった。多分。
「君たちにも、神様は見えてるんじゃないかな」
そう言った時、ミンギュは堂々と鮑の粥を追加注文した後で、「他の人はどうか知らないけど、俺は見えるよ。時々」と言った。
まぁ鮑をご馳走になったことだし、話を合わせておこうとでも思ったのかもしれない。
でもおじさんはいたく感動して、フルーツの盛合せも頼んでいいか聞くミンギュに快諾してた。
おじさんはニコニコしながらウォヌも見てくる。
もうお腹もいっぱいで眠たくもなってきていて、でもおじさんは見てくるし、ミンギュも軽い口調で「ウォヌヒョンもだよね?」とか言ってくるから。
普段なら絶対そんなことは言わないのに、ウォヌは言ってしまった。
「いや、俺には神様は見えない。でも、神様に群がってる程度のやつは見えるよ」
神様は見えないと言ったのに、おじさんはやっぱり喜んで、持ち帰り用の鮑のキンパも注文してくれた。
それから泊まってる場所を聞いてくるけど、ミンギュが貧乏旅行だからどっかチムジルバンに潜り込む予定と言ってしまった。
まぁ言ったって、全然いいけど。
「良かったら部屋もこっちで準備するよ」
おじさんが親切そうに笑いながら言う。
それから部屋は1つがいいか2つがいいか聞かれて、ミンギュが「いやいや、俺らなんて部屋1つどころかベッドだって1つで大丈夫なのに」とか答えたら、店を出る頃にはミンギュの手には一流ホテルのカードキーが手渡されてた。
「俺はチムジルバンでいいけど」
ウォヌはそう言ったのに、「いや、人生時には流されようぜ」とミンギュはお気楽だった。
時にはじゃなくて、お前はずっと流されてるだろと思わずウォヌが言い返そうかと思ったほど。
でも久しぶりにちゃんとしたベッドでも寝たかったし、ウォヌだって流された。
でも豪華な部屋の中にはキングサイズのベッドは1つしかなかったけど............。
いやもしかしたら、いや絶対、何か誤解されたかもしれないと思ったのはウォヌだけだったのか、「俺ソファで寝るから」とか、そういう発言をすることも一切なく、ミンギュは当たり前のようにウォヌのことを同じベッドに連れていく。
「さぁウォヌヒョン、動いたしたらふく食ったし、次は寝よう」
そう言って、ミンギュは一瞬で眠りに落ちた。
こんな場所、こんな状況でよく眠れるなお前.........って言おうとしたウォヌだったけど、力を抜いてミンギュの横でベッドの感触を身体で感じた瞬間には、ウォヌもまた眠りに落ちていた。
山なんて登ったから、疲れていたから。
そんな言い訳をする間もなく.........。
望むなら、その全てを叶えよう
親切な人がいた。
おかげで高いものをたらふく食ったし、ゴージャスな部屋で寝た。
キングベッドが1つだけだったけど、2人で寝ても十分な大きさだったから、特に問題はない。
途中からウォヌが呆れていたのは気づいていたけれど、長い間ホストなんてやってただけあって、相手の望みはついつい叶えてあげたくなる。まぁできる範囲内だけど。
それでも神様が見えてるかどうかなんて証明もできないし、人は信じるものだけを信じるんだから、奢ってくれた人に喜んで貰えるならなんだっていいはず。
土産も貰った。ちょっとだけ眠ったら、後でウォヌと食べよう。
そう思って横になったのに、身体は思った以上に疲れていたのか朝まで起きることはなかった。
でもそれはウォヌも同じだったようで、朝起きてみたらド真横にウォヌの顔があって、「近ッ」って思わず言ったほど。まぁでもウォヌの身体に足を巻き付けて寝てたのは自分だったから、文句も言えないけど。
よっぽど疲れてたのか、よっぽど抱き心地が良かったのかは知らないけれど、久しぶりに熟睡したかもしれない。
えいやって起きてシャワーを浴びて、それから昨日と同じ服を着る。
朝食と言うには遅過ぎるけど、昨日のお土産をひろげて1人で食べる。ちゃんとウォヌの分は残しておいたけど。
山の上は寒いと学んだけれど、もしかしたらウォヌが晴れろと願えば叶うのかもしれない。半分以上は信じてなかったけど、やっぱり次の山も軽装で行っちゃおうかな〜とか、甘いことを考えていた。
多分、いや絶対ウォヌからは「やっぱりお前ケチだろ」とか言われそうだけど。
いや、絶対そうじゃない。ただ無駄なお金を使うのはミンギュの中では唯一許されないことだから。
「起きてんの?」
ベッドの中でゴソゴソとウォヌが動きながら、ミンギュに声をかけてきた。
「うん。これ、時間経ってから食べても美味いよ。ちゃんと残してあるから」
ちょっとだけモソモソしながらそう言えば、「いい。俺はいらないから全部食べていいよ」とウォヌが嬉しいことを言う。
「え? いいの? ありがとウォヌヒョン」
ミンギュはお礼を口にしつつ、もう食べていた。
ウォヌはまだ眠いのか、だけど抱きしめて寝てたミンギュがいなくなって寒いのか、「悪いけど俺に布団もう一枚かけて」と言う。
「わかった。食べたら俺も、戻るから」
ミンギュがそう言うのを聞いてるのかいないのか、ウォヌは「うん」と頷いて、また眠りについていた。
ミンギュはウォヌに布団をかけてやる。
それからもうひと眠りしようと、自分の身体をその横に潜り込まして、またしてもウォヌのことを抱きしめた。望むなら、その全てを叶えよう。ってことで。
キス、するのかと思った
誰かの体温を感じながら眠るなんて、記憶にある限りははじめてだった。
それがこんなに心地よいものだとは知らなかった。
でもはじめてだから、ミンギュだから心地良いのか、他の誰でも心地良いのか、柔らかい身体の女性の方がもっと心地良いのかは、まったくもって判らない。
ミンギュは一度起きたけど、ウォヌは起きなかった。
その差が出たのかもしれないが、次に目を覚ましたのはウォヌの方で、ミンギュに抱き込まれるようにして寝てた状態に、心地よさを感じつつも戸惑ってもいた。
誰かと一緒に寝たこともないから、この状態からどうしたらいいかも判らない。押しのければいいのか、我慢すればいいのか。
「悪い。重たい?」
起きた気配でも感じ取ったのが、寝てたはずのミンギュがそう聞いてくる。
「重たくはないけど」
「けど?」
そう言いながら、ミンギュが頭をあげて覗き込んできた。
驚いて見上げれば、真正面から目があう。その驚くほどの至近距離具合に、ちょっとだけ言葉を失う。
ウォヌがちょっとでも自分の顔をあげたら、きっとキスできるぐらいの距離だったから。
それなのにミンギュの顔が下りてくる。
不意に訪れる謎な、キスするタイミングが今なのかもしれないけれど、人生にそんなタイミングが訪れる予定なんてなかった身としたら、避けるとか拒否るとか殴るとか頭突きするとか、そういうことは全部後から考えたことばかりで、ただただその唇の行方を追ってしまったウォヌだった。
結果から言うと、キスはされなかった。
ミンギュの頭は下りては来たけれど、それこそ絶妙nタイミングで身体も引いていったから。
掠めることすらなく、唇も顔も身体も離れていって、そりゃそうだって思ったらおかしくなった。
「なに? 楽しいことでもあった?」
ミンギュがそう聞いてくるから思わず、「いやだって今お前が、キス、するのかと思ったんだもん」って言ってしまった。勘違いにもほどがあるって、なんだよそれってミンギュは笑うと思ったのに......。
「ちょっとは期待した?」
さらりと聞かれたから、さらりと答えてしまった。
「うん。キスするタイミングって、こういう感じなんだって思った」
「いや、狙ってるなら、目は絶対に離さないよ」
そう言ってミンギュは視線をあわせてくる。
でもその顔も声も笑ってたから、「そうなんだ」って感じだったのに、「視線をあわせたまま、外さないならキスしても怒られないし、視線を外しても恥ずかしそうなら、きっとキスしても怒られない」と教えてくれた。
「え、じゃぁ視線をあわせたままでも外しても、キスするんじゃん」
「そうだよ。だって狙ってるんだから、当然じゃん」
ミンギュの顔がまた、そう言いながら近づいてくる。笑ってる雰囲気は変わらないのに。
「回避策は?」
「狙ってる相手に聞いちゃダメじゃん。まぁでも、ウォヌには特別に教えるけど、気が削がれるような会話を続けることかな」
特別に教えてくれたらしいが、そう言いながらもミンギュはまたしても距離を詰めてくる。だから少しだけ慌てて、ウォヌは気が削がれそうな話題を探す。
「なんで呼び捨てなんだよ」って。
キスぐらい、誰とでもできる
キスするのかと思ったと言うウォヌは、思わせぶりな態度や言葉や表情なんて何一つ見せてないのに、びっくりするほど可愛かったかもしれない。
だからキスをしてやろうと思ってたのに、結果から言うと、キスはできなかった。
ウォヌが気を削がすような話題を口にしたから......じゃなくて、居心地の良かったホテルの中に、突然非常ベルが鳴り響いたから。
「チッ、今度はなんだよ」
思わず舌打ちまでしてしまったほど。
驚いて叫ぶことはあっても不機嫌になることなんて珍しいのにとミンギュは他人事のように、自分のその瞬間不機嫌になった理由を考えて、もしかしたらキス、したかったのかも......と思ってみたり。
「ソルマ」って呟きは、ウォヌの「逃げるなら、服着た方がいいよ」って言葉にかき消された。
「ヤー、ウォヌヒョン、そう言うことは真っ先に言ってよ」
慌てて脱ぎ散らかしていた洋服をかき集めて、身なりを整えていく。
その間にも、非常ベルは鳴り続けていて、間違いでしたすみませんみたいな放送もない。
2人して廊下に出た時には、あちこちの部屋からも人が出てきていた。
電気は普通についてるし、どこかからきな臭い匂いとかもしてこない。それでも念の為と非常階段に向かうことにした。
「本気で人が逃げはじめたら、内階段は逃げ場所がないから」
ミンギュは冷静にそんなことを行って、外の非常階段をチョイスした。泊まっていた部屋は7階ぐらいだったから、外にでるまでにそれほど時間はかからないだろうと思われたのに、2階分ぐらい下りたところで上の方から爆発音がした。
「うっそだろ」
なかなかそんなこと、ドラマの中でも滅多にない感じなのに、気づけばあちこちから悲鳴が聞こえてきて、なりふり構わず人が非常階段へと出てくるのが見えた。
「早く行こう。パニックになると危ない」
ウォヌが冷静に言うのを見ながら、ミンギュは頷いた。でもミンギュの口から出てきた言葉は、何の関係もない言葉だったけど。
「ヤバイウォヌヒョン、俺らさっき、キスしとけば良かった」
「は?」
ウォヌは思わず非常階段で足を滑らしそうになって、ミンギュに支えられたほど。
「キスなんて、いつでも誰とでもできるって正直思ってて、キスで後悔することなんて、俺の人生で来るとは思ってなかったのに、俺、今物凄く後悔してる」
逃げなきゃいけないってのに、ミンギュは思わず、熱く語ってしまった。
「次はするよ。絶対」
それからなんでかそう決意の言葉も口にしていた。
災いだって神様の贈り物
非常階段には人が溢れてた。でもミンギュとウォヌは行動したのが早かったから、その姿をホテルの駐車場から見ていて、駆けつけた消防に離れてと叫ばれて、今また移動しようとしてたところだった。
本当ならこのまま勝手に移動したいところだけどと言いながらも、ミンギュはちゃんと、警察の人に自分たちが宿泊客だったことを伝えていた。
でも事件ではないらしくて、パーティの準備をしてた場所で火災と爆発が起きたらしい。宿泊客を逃がすほどのことはないと自分たちでの消火を優先させたために爆発が起きて手がつけられなくなったっていう話だったけど、非常ベルの音にドキドキしたのか、非常階段を下りたからドキドキしたのか、それともミンギュと次はキスすることが決まってるからドキドキしてるのか、正直ウォヌは判らなかった。
ミンギュもなんでか興奮してて、「俺、高いところが唯一ダメなのに、さっきは非常階段怖くなかったわ」と言いながら、「凄くない?」とウォヌに聞いてくるけど、どこが凄いのかはよく判らなかった。
逃げる時に倒れてケガをした人が数人と、火災で逃げるのにエレベーターを使って閉じ込められた人が出ただけで、大きな爆発音はどうやら音だけだったみたいで驚かされた割には大したことはなかった。
でも、何もないってことは、やっぱりなかったってことが判っただけ。
だれもそれが呪いのせいだなんて気づいてなかったし、ミンギュだって何も言わなかったし、ただ何事もなく開放されることが判った時に、「やっぱり俺らはチムジルバンで十分じゃない?」と言っただけだった。
まぁそれの方が被害は少なくてすむってことかもしれない。
2人でまた移動して、それからまた山にでも登って寒さに震えて、どこかのチムジルバンに泊まってって。そんなことの繰り返しだと思ってて、それも悪くないと思ってたのに、ホテルに泊めてくれた男の人が気づけばそばに立っていた。
「災いだって、神様の贈り物ですよ」
そう言って笑いかけたのは、ミンギュに向かってだったのか、ウォヌに向かってだったのかは判らない。
でもなんでか、騒動が起きた原因はちゃんと別にあるのに、それがウォヌたちのせいだと判ってるような口ぶりだった。
「ま、そりゃそうだろ。神様がいる世界なら、全ては神様の思し召しだろ」
ミンギュはなんでもないことのように笑って、おじさんにお辞儀してた。食事やホテルのお礼のつもりなんだろう。
それから、「じゃ、俺たちは次があるからこれで」とおじさんに背を向けて歩き出す。
「ほら、ウォヌヒョン」
呼ばれてウォヌも歩き出す。
おじさんは、引き止めるかと思ったけど引き止めなかった。
目的と目標の違いがいつもわからない
ミンギュが歩く後ろをウォヌがついてくる。
どこに向かって歩いているのかミンギュですら判ってないのに、ウォヌは文句も言わない。
色々あったから、目的を忘れかけていたけれど、そう言えば呪いを祓うために来たんだったと、ミンギュははたと気がついた。
そのために済州を目指してて、たどり着いたら今度は山を目指してて、でもいきなり険しいのは難しいからと小さい山を攻めたはずなのに、初っ端から気持ちの上では死にかけた気がしないでもない。
でも楽しかったけど。
色々あってバタバタし過ぎてるけど、それでも楽しいんだから、これはもうただのバカンス的な旅行じゃないかって気もしてくる。貧乏旅行ではあるけど。
謎に親切な人のおかげで豪華な飯も食ったし、良いホテルにも泊まれたし。
後は地元の人しか知らないような店とかも見つけてみたいとか、緩いことまで考えはじめてしまう。
目的と目標の違いも微妙なのに、それを行き当たりばったりでしてるから忘れることも多くて、それを理解してもなお正す気はないんだからしょうがない。
「ウォヌヒョン」
だから真面目な顔で振り返ってはみたけれど、ミンギュの口から出た言葉に、ウォヌが「は?」って言ったのはしょうがないだろう。
「呪いはさ、もう長い付き合いなんだし、別に急ぐ必要はないじゃん。だからさ、霊験あらたかな山はちょっと後回しにして、せっかくだし俺らこの島全部攻める?」
とか言い出したから。
何言ってんだコイツみたいな顔をしてるウォヌに、ホテルで手に入れたパンフレットを差し出した。
そこにはホテルに近い場所の観光名所やアクティビティなどが全部書いてあって、楽しそうではあった。
少し進めば馬にも乗れるらしい。しかも体験コースを選べば、馬小屋の掃除もやらされるが馬には1回だけ無料で乗れるらしい。
それから山の斜面を使った大自然の滑り台は、無料でボードを貸してくれて、体力次第で何度でも楽しめるとか書いてある。
「自然とふれあうだけでも、ご利益あるって」
ミンギュは笑って、「いいでしょ? 行こうよヒョン」とウォヌのことを誘う。
振り返った時にウォヌが驚いていた。
バカなことを言ってる自覚はあったからそれでだと思ってたのに、ウォヌから返って来た言葉にミンギュの方が驚いた。
「なんでお前は、俺に選択権があるようなことを言うんだよ」って。
ミンギュの方が驚いたし泣きそうになったかもしれない。でも笑って、「うん。ウォヌヒョンに選択権なんてないない。じゃ決まりってことで」って言いきってウォヌの手を掴んで引っ張った。
あぁきっとこの人は、ミンギュが目的と目標を見失う以前の問題で、長く自分の目的も目標も持たずに生きてきて、それを持てるってことすら忘れてるんだなって気づいたから。
2人で一緒にいるんだから、片方だけに選択権がないなんてことはない。
それはミンギュにとっては当然でも、ウォヌにとっては当然ではないだけのこと。
呪いと一緒にいるのに遊ぼうとする男
ホテルから逃げ出した時のゾワッとした気持ちを、ミンギュはもう忘れたのか。
恐ろしい遭遇率で、不幸なことに見舞われているっていうのに、しかもミンギュはウォヌは呪いそのものだとも知っているのに。
まぁそもそも、呪いを祓うためだとしてもウォヌのことなんてさっさと誰かに押し付けて、1人でくればこんなことにはならなかったのに。
そうは思うものの、知り合ってからまだそれほど経っていないのに、ウォヌにも判ったことがある。
それはミンギュが、どんなことでも絶対に楽しもうとしてることと、金は持ってるっぽいのにケチっぽいこととか、唯一とか言いつつ苦手なものや嫌いなものが多いこととか。時々物凄いバカにも見えるけど、案外賢いこととか。それから誰にでも優しいこととか。
きっとミンギュと少しでも一緒にいたら、全員がミンギュのことを好きになる。男とか女とか年寄りとか子どもとか関係なく。
「でも俺、料理得意だけど」
突然振り返ったミンギュがそう言って、ボーっとしてた訳じゃないのに、ウォヌにはその「でも」が、どこからの「でも」なのかが判らなかった。
「ミアネ。ちゃんと聞いてなかった。でもって?」
ウォヌは謝ったっていうのに、それはどこからの「でも」でもなかったらしい。
尋ねられたミンギュの方が悩みはじめて、「なんで俺、『でも』って言ったんだろ」とか言い出したから。
「謝り損じゃん」って思わずウォヌが言ってしまったほど。
「大丈夫。俺といるのに。損はさせないって」
なんでか自信満々のミンギュはそう言って、ほらとウォヌの手を引く。
なんだか、手を繋ぐことにも慣れてしまった。
ズンズンと楽しそうに進んでいくミンギュに引かれながらウォヌも結果、ズンズンと歩く羽目になる。
馬に乗る予定が、なんでか牛しかいなかった。ちゃんとバカ高い正規の料金を払った人たちが多かったんだろう。
でも牛たちの乳搾り体験をさせてもらって、搾りたての牛乳は温かくて甘くて、子牛たちは可愛かった。
山の斜面を滑り降りるのは、意外にスピードが出て怖かった。だから一度で十分だったのに、ミンギュが2人で一緒に滑ろうと言い出して、断らなかった自分も悪いけど、男2人分の体重でスピードが増した結果、ゴール地点を遥かに超えて道路にまで飛び出して、ある意味事故ったんじゃないかって感じ。
でもミンギュは爆笑してたし、ケガはしなかったし、それを見てた人たちは全員拍手してくれたけど、ウォヌはもう2度とお前とは一緒に滑らないと言ったのに、結局その後3回も一緒に滑ってそのたびに死にそうな思いをした。
でも草に塗れながらも、気づけば2人でヒーヒー言って笑ってたけど。
馬も牛もヤギも犬も猫も
動物の方が何にでも繊細だし警戒心も強いのに、ウォヌから逃げたりなんてしなかった。
確かめようと思っていた訳でもなくて、なんだ、大丈夫なんじゃんとたまたま気づいて、そう思っただけ。
なんならウォヌの方が丁寧なのか動作がゆっくりだからか、動物たちはミンギュに世話されている時よりも落ち着いていた。
馬には乗れなかったけど、触らせてはもらえた。
牛もヤギも、放し飼いされてた犬も、誰が飼い主かも解らない猫たちも、ごく自然にそこにいて、ウォヌとわざわざ対峙することもなかった。
山から滑り降りた時、2人して道路に飛び出しはしたけれど、一度たりとも車に挽かれることもなかったし、その勢いのまま何かに衝突することもなかった。
掃除も手伝ってから結構な労働だったし匂いもキツかったけど、動物たちが暴れることもなくて、何かが倒れてくるってこともなかった。
「猫が............」
ウォヌが何か言いかけて黙る。
見れば黒と白の、それほど可愛い感じじゃない太った猫がいて、ウォヌに首筋を撫でられて喉をゴロゴロ鳴らしてた。
特に聞き返さずにそのままにしてたら、大分経ってからまたウォヌが言った。
「猫が欲しかったんだ。昔。長く長く生きる猫とずっと一緒に暮らして、おじいちゃんかおばあちゃん猫と一緒にひなたぼっこするのが夢だった」
慎ましい夢に見えて、それは案外壮大だった。
動物を買える人は多くても、ちゃんと飼える人は少ない。
ペットぐらいと人は言うかもしれないけれど、生きるだけで精一杯な人は案外多いから。
「いい夢だね」
ミンギュが言えたのはそれぐらいで、いつか一緒に飼おうとは、言ってあげられなかった。
一緒に旅をしている。最初の頃と違って会話も増えたしウォヌはよく笑うようになった。ついさっきも爆笑してたし、ヒーヒー言いながら笑うと目尻に溜まる涙がちょっとだけエロい。
キスだって、してもいいとか思ったっていうのに、特別な存在かというと判らない。
ミンギュはまだ誰のことも、特別だとは思ったことがないから。
唯一幸せにしたいと願ってる相手は、ミンギュよりも強いし。
牧場の裏には、地元の人しか知らないような店構えのパン屋があって、スコーンが美味しいらしい。
「俺、スコーンって自分でも作ってみたい唯一のお菓子かも」
そう言ってミンギュが当然のように歩き出せば、ウォヌが後ろから「お前、唯一って言葉の意味を間違えてるだろ」とか言いながら着いてくる。
当然のように半分こ
ホワイトチョコと抹茶のスコーンを1つずつ買った。プレーンのスコーンは売り切れていたから、ミンギュは明日また来るとも言っていたけど。
どっちがいいとも言われなかったし聞かれなかった。でもミンギュはホワイトチョコのスコーンに齧り付いて、ウォヌの手には抹茶のスコーンを手渡した。
どちらかというとホワイトチョコの方が食べたかったけど、お金を出したのはミンギュだったから。
でもそんな心配は無用で、ミンギュは当然のようにホワイトチョコのスコーンを半分食べてよこした。それからウォヌがまだ食べてる抹茶のスコーンを反対側からでっかい口で半分奪い取っていった。
「明日はもう少し早く来て、プレーンのスコーンも買おう」
そう言うから、「季節のフルーツのスコーンも買う」と答えた。それももう売り切れていたから。
普段ならあまりモノを買いたがらないミンギュなのに、特に反論はない。
地元の人しか知らないってのがミソなのかもしれない。
それからミンギュはなんでも分けてくれる。当然自分のものも獲られるけれど、きっと一緒にいると半分こするのが普通と思っているのかもしれない。
それは誰とでもそうなのか。ふとそんなことが気になって思わず聞いてしまいそうになったほど。
口の中にスコーンが詰まってて良かった。バカなことを聞かなくてすんで。
珍しく何もなく一日が終わろうとしてた日。
明日には当然のようにまたスコーンを半分こできると思ってた日。
なんだかこのまま、ずっと一緒にいられるんじゃないかって、思ってしまった日。
それが、ミンギュとの旅の最後の日だった。
「ちょっと待ってて」
ミンギュはそう言って、ウォヌの前からいなくなった。
ちょっとってどれぐらいなのか、正直判らなかった。でも3日は待った。
3日はどう考えてもちょっとじゃない。そんなことは判ってたけど、3日も待ってしまった自分のバカさ加減に笑う。
今まではいつだって、みんな誰かに呪いを、ウォヌのことを押し付けてくれたっていうのに、ミンギュはそれすらしてくれなかった。
ミンギュは戻ってこなかったけど、ウォヌを訪ねて来た人はいた。
いつぞや親切に色々奢ってくれた、神様を信じてるおじさんだった。
ウォヌが1人でいることを驚きもせず、また聞いてもこなかったから、すでに知っていたんだろう。
山の近く、精錬な空気が流れる場所に親しいひとたちと集まる小屋を作っていて、良かったらその集会に参加して欲しいっていう話だった。
興味なんてなかったのに着いていったのは、その場所では一切の穢れが流されると言ったから。
バカみたいに、そうしたらミンギュは戻ってきてくれて、一緒にスコーンを半分こできるんじゃないかって、思ってしまったから。
偶然も必然も運命も宿命もクソくらえ
「ちょっと待ってて」と言ってウォヌのもとを離れてから5日も過ぎた。
たぶんちょっとの概念は、いくらのんびりしてるウォヌでも過ぎているだろう。
でも自分の手の中にはミンギュのスマホがちゃんとあって、ウォヌはスマホなんて持ってなくて、最後に泊まってたチムジルバンに電話してもウォヌらしき人は見当たらなかった。
電話口で「そっち火事とか起きてないです?」とか「警察沙汰とか最近ありました?」とか。
不穏なことばかり口にするからか、物凄い嫌がられたけれど、何も起きてはいないようで、それなら本気でそこにはウォヌはもういないんだろう。
戻るつもりではいるし、きっとウォヌはすぐに見つけられるだろう。
それにまだミンギュはウォヌのことを誰にも押し付けてない。
どうしたってミンギュには何があっても駆けつけなきゃいけない大切な存在があって、それはウォヌよりも優先された。
それは当然のことで、これまでだってそうだったのに、なんでかウォヌには「ごめん」と言いたくなった。
1人具合で言えば、ウォヌの方がずっとずっと1人なのに。
ウォヌのもとに戻るのに、ミンギュは飛行機に乗った。フライトは安定してるし騒ぎ出す人もいないし当然火事も事件も起きない。
思わず僅かな間のフライト中に爆睡したほど。
でも、ウォヌがいたら面白かったのにとも思ったのも事実で、ウォヌがいたら今頃ハイジャックとかにあってる......とか思うたびに1人で笑ってしまって周りの人から不気味がられたほど。
やっぱりバスも、何の問題もなかった。
最後にウォヌと一緒にいた場所まで戻っても、そこにはウォヌはもういなかった。
必死になって探さないと見つからないかと思ったのに、案外すぐにウォヌの行き先は判った。戻って来たミンギュのことを探してた人がいたから。
それはいつぞや親切に色々奢ってくれたおじさんで、あの時は落ち着いた感じでなんにでも鷹揚に頷いてくれる感じの人だったのに、今はちょっと疲れている感じになっていた。
「なんであんたはあんなのと一緒にいて、あんなに笑ってられたんだ」
おじさんはそう言った。
こないだは物凄い嬉しそうな顔をしていたのに、僅か数日離れていた間に何があったのか。
「うちには神の子がたくさんいたのに」
不思議な力を持つ人たちを、集めた訳ではないが保護していくうちに気づけば能力者たちの集まりになっていたというそこは、名前だけ聞くと普通のキリスト教を信じる人たちの集まりのようだった。
霊が視える人もいて、霊媒師としての力も相当あって、それこそ全国からその人に会いに来る人がいたらしいのに、ウォヌはその人に向かって、「霊が見える割には、自分の足下にいるその犬は見えないんだな」と言ったらしい。
茶色い雑種のポチという名前の犬は、今も飼い主の側にいて色んなものから飼い主を守ってた。
霊が視えたはずの人は、ボロボロと泣いて、自分の足下を撫で続けていたらしい。それから何も視えなくなったと言って、去って行ったとか。
その話を聞いて、「なんだ。呪い殺されたとかじゃないなら、全然いいじゃん」と呟いたらおじさんから睨まれた。
本当に力がある人たちは、何故かその力を失って。
力がないのにあるふりをしてた人たちは、何を見たのか様子がおかしくなってしまったらしい。
それがウォヌがその場所に行った初日に起こったことで、2日目には教会の象徴とも言えるマリア像が崩れ落ちた。やっぱりミンギュは「そんなのただの劣化じゃん」と言ったけど、意味を見出す人はどんなものからも見出してしまうんだろう。
3日目には神父様が「呪われるのなんてごめんだ。神を冒瀆するからだ」って言いながら逃げ出した。
「ほら、その神父さんだって、何か後ろめたいことがあったんだって」
4日目には、教会が燃えた。
逃げた神父に騙されたという人が火をつけたらしい。
そりゃもう身内で揉めてるだけじゃんとは思ったけど、ミンギュは何も言わなかった。
その代わりとばかりに「ウォヌは俺がちゃんと引き取りに行くよ」と言っただけ。
もはや出て行って欲しいと思っても、呪いが怖くてそれすらも言えずにいたのかもしれない。
ウォヌが火を放ったんでない限り、いやウォヌがもしも放ったんだとしても、ミンギュは気にしないかもしれない。ウォヌがそうしたからには、そこに至るまでの理由がちゃんとあるはずと思えるから。
「呪いがなんだ」
ミンギュは小さく呟いた。
今は本気でそう思ってて、その言葉を早くウォヌに向かって口にしたかった。
神を呪えば
「なんという禍々しさ。神すら呪うつもりか」
芝居かかった言葉を口にした男は、芝居でない証拠とでも言うように、火のついたランタンをウォヌに向かって投げつけた。
投げつけられたランタンから飛び散った火が、草木に燃え移ったのはほぼ同時だった。
ミンギュが帰って来ないから、誘われるままについて行った先には古く見えるように作ってあったけど、実は新しいんだろうなって感じの教会があった。
次々と神の子と呼ばれる人たちを紹介されたけど、半分手品みたいなものを見せられて、驚けば良かったのか、それとも慄けば良かったのか。
きっとミンギュなら相手が喜ぶぐらいには喜んで、褒めて、羨ましがって。それから人好きのする笑顔をたっぷり見せていただろう。
だけどウォヌにはそんな技もなくて、幽霊が見えて話せるって人に向かって「霊が見える割には、自分の足下にいるその犬は見えないんだな」と言ってしまった。
別に、ウォヌには幽霊なんて見えない。
ただその人が犬の形のブローチをつけていて、古く見えるそれはきっと大切なんだろうなって思えたから、言ってみただけのこと。
演技もハッタリもない。ただ無表情と少し低めの声と、嘘なんてつきそうにない雰囲気がすべて絡み合った結果だった。
きっとその人にとっては、誰の幽霊でもない、かつての愛犬こそがもう一度会いたい相手だったのかもしれない。物凄い唖然としつつも、小さい声で「ポチ」と呟いた。
亡くなった家族でも、大切な相手でも、私が会わせてあげると言って神の子と呼ばれた人はウォヌのすぐ側にいたから、多分その声が聞こえる距離にいたのはウォヌだけで、「ほら、ポチはずっと、飼い主のことを守ってる」って言えば、自分が犬の名前を呟いたことすら気づいていなかったからか、神の子は見て判るほどに驚いて、それから震えて、自分の足下にいる犬に手を伸ばしながら泣き出してしまった。
その様子に、周りの人たちも当然驚いて、ウォヌから距離を取るようにして人が離れていく。
近づけば何かを読み取られてしまうとでも、思ったのかもしれない。
意気揚々と寄って来たはずの人たちは、結局ウォヌには近づいてこなかった。
別にそれ以上はウォヌは何もしてない。でもそれはこれまでと一緒で、物事は勝手に動いていく。
そして何かあるたびに、誰もがウォヌを見る。
ウォヌがピクリとも動いてないってのに、どこかで何かが壊れたと言って、火が出たと言って、神父様がいなくなってしまったと言って、そのたびにウォヌを見る。
何が起きたって楽しそうにミンギュは笑ってたっていうのに............。
そして3日目には、なんでか追いつめられていた。
「見たか。人の心を惑わすものは、火すら操るぞ」
気づけば後ろは崖で、きっと落ちたら無事ではすまないだろう。
いつしか無意識に望んでた終わりが、あっけなくウォヌに訪れようとしていた。
こんなことなら、もっと早く神でもなんでも呪っておけば良かったと思ったほど。
ミンギュがいないことに、本当にホッとして。
巻き込まなくて良かったって、心の底から思って。
あぁでも最後にもう一度、会いたかったなって、そうも思いながら。
まだ追いつめられたとしても多少の距離はあったのに、ウォヌは一歩、自分で後ろに下がった............。
呪わば笑え
ミンギュが見た時、山が燃え始めていた。
パニックなのか興奮なのか集団心理なのか判らないが、神様って言いながら暴力的になった一団が、ウォヌを崖に向かって追いつめていた。
必死に走ってウォヌの前に両手を大きく開きながら躍り出て、「やめろッ」と叫んでどうにかなるっていうなら、ミンギュだってそうしただろう。
でもきっとそんなんじゃ助けられない。
だってどうしたって人間は自分勝手で醜くて、信じたいものしか信じない。時々発揮される優しさは押し付けがましくて悍ましくて、可哀想な子どもは同情されれば喜ぶと本気で思ってる。
自分の知らない世界はなかなか認めようともしない。
グッと手を握りこむ。でも歯を食いしばったりはしない。それなら笑った方がマシだった。
どんな時でも笑って過ごせば、なんにも負けることがないと知っているから。
「笑え」
きっと声なんて聞こえない。判っててもミンギュは祈るみたいに、追いつめられたウォヌに向かってそう言った。
願いが叶ったとか、祈りが通じたとか、神様はやっぱりどこかにいるとか。そんなことは思わなかったけど、ウォヌは笑った。
その笑顔にウォヌを追いつめる一団の足が止まったほど、鮮やかな笑顔だったけど、ウォヌは楽しい時にはもっと盛大に笑うことをミンギュは知っている。
思った以上に身体を使って、足から崩れ落ちるようにして爆笑することだってある。
あんなに、綺麗に笑うウォヌだけじゃ、きっともう自分は満足しない。
呪われてるからって、呪いそのものだからってなんだと、多分言えるのは自分だけで、ウォヌの横にいられるのもいていいのも自分だけで、その笑顔を見ていいのも笑わせることができるのも、絶対に自分だけ。
泣いてる姿は見たっけ。怒ってる姿は?
あぁ、見たい姿は山とある。
「ウォヌヒョン、なに俺がいない間に崖っぷちまで追い詰められてんの」
ミンギュは悠々と近づいて、それからウォヌに手を出した。
ウォヌは驚いて、それからポロって涙を一つ零したと思ったら、「お前のちょっとはどうなってんだよ」って怒り始めて。
ミンギュは笑った。見たいと思ってた姿がいっぺんに見られたから。
山が燃えそうだったのに、突然降りだした雨によって消えた。
謎に興奮してた一団は、突然現れたミンギュの明るい空気に虚を突かれたのか、それとも突然の雨に興奮が収まったのか、それとも追い込んでたはずの男がミンギュといると普通の男に見えてきたのか............。
もう誰もウォヌのことを追いつめようとはしなかった。
ところで俺たち、ここで何してんの? という男
自分の最後を覚悟したはずで、心はその一線をすでに超えていたはずなのに、突然あらわれたミンギュはあっさりとウォヌのことを引き戻した。
「ウォヌヒョン、なに俺がいない間に崖っぷちまで追い詰められてんの」
ミンギュが呆れたような声で言う。
もう会えないと思っていた分だけ会えたことが嬉しくて、その声が沁みて、バカみたいに感動して涙が思わず零れたけれど、笑ってるその顔にムカついて、「お前のちょっとはどうなってんだよ」って思わず怒っていた自分がいた。
あぁ誰かに怒るなんて、いつぶりの感情だろう。ウォヌですらもう覚えてないのに。
ミンギュはでも、楽しそうに笑ってる。
「じゃ、俺ら行きますね。皆さん、お元気で」
なんでか普通にそう言って、手を振っているミンギュの反対側の手は、ウォヌの手と繋がっていた。
ミンギュがさくさく歩いてく。手を引かれたウォヌだってさくさく歩く。
結構なくだり坂だって、足場の悪い場所だって、見知らぬ人とすれ違えば「アニョハセヨ」って笑顔で挨拶しながら。
その間もずっと手は繋がったままで、挨拶はしないけど、ウォヌだって見知らぬ人に会釈ぐらいはした。
いつまで手を繋いだままでいるんだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか普通の道路に出てて、気づけば町中だった。
小さいけどコンビニだってあって。
「好きなもの買っていいよ」
珍しくもミンギュがそんなことを言う。
いつもは1+1しか買わないのに......。
だから思わず「ゲームの課金もしていい?」って聞いたのに、「それはダメ」としっかり拒否られた。
そしてミンギュが歩きだす。何かを考えているからか、黙々と歩く。
疲れてきたウォヌはミンギュのスマホを借りて、しばらくぶりのゲームの続きをはじめて、やっぱりバス停に座って待つことにした。
ミンギュはそんなウォヌの前を、何度も行ったり来たりする。
まだ今日の落ち着き先も決まってない。まぁどうせそこらのチムジルバンなんだろうけど。
待ち続けて2時間は経ったかもしれない。
気づけばミンギュがウォヌの前に立っていて、「ところで俺たち、ここで何してんの?」と聞いてきた。
もしもの時のためにしたこと
ミンギュの不用意な発言に機嫌を損ねたのか、珍しくもウォヌは不機嫌だった。
見た目はいつだって不機嫌そうだけど、普段のウォヌは案外いつだって穏やかで、機嫌が悪いなんて珍しい。
でもそれがやっぱり嬉しくて、ニヤニヤしながら、「ほら、今日はちゃんとしたホテルに泊まるから」と言ってやれば、「チムジルバンでいい」とウォヌが言う。
「その代わり、課金していい?」
「........................ダメ」
即答でダメと言えなかったのは、なんだか物凄くウォヌがカワイイと思えてしまったから。
なんだか面白くなってきて、近場のチムジルバンを探す。
「なんだよ。ホテルじゃないじゃん」
「だってウォヌヒョンがチムジルバンでいいって言ったんじゃん」
「その代わり課金って言ったらダメって言ったじゃん」
なんでか2人して、じゃんじゃんじゃんじゃん言いながら、結局チムジルバンで落ち着いた。
夜中にどこかで誰かが騒いでたし、機械の故障で温度設定がおかしくなっていたし、極めつけは朝方に地震があった。この国では珍しいほどの大きさでちょっとビビったけれど、安定と言えば安定の日常かもしれない。
これからだって、きっと色々あるだろう。
人よりは逃げることの多い人生になるかもしれない。
でも人よりも危険察知能力と、回避能力と、非常事態に備える生き方ができるだけ、いざって時にはなんとかなりそうな気もする。
ウォヌは離れていた間、ちゃんと眠れてなかったのか、ミンギュの横で深い眠りについていて、多少騒がしくても揺れてもビクともしなかった。
寝顔は普通で、目を閉じてても男前で、でもその寝顔すら自分以外の誰かがこれほどまでに近くで見ることもなかったんだろうなって思うと、ちょっとだけニヤリとしてしまう。
笑ってる姿だって、泣いてる姿だって、怒ってる姿だって。それから多分、これからもっと自分しか知らないウォヌの姿が見られるはずで。
そう思うと、これからもずっと、側に居続けるような気がする。
だから一瞬だけ、ウォヌのためのスマホを手に入れることだって考えた。そうすれば離れてる間もいつだって連絡が取れるから。
でも考えてみれば、離れてる時間のほうが少ないはず。
恐らく年に2回。ミンギュが突然呼び出されるのはいつだってだいたい決まった時期で。それなら別に、ウォヌを置いていくこともない。
落ちそうだしハイジャックされそうだから、飛行機には乗れない。不便なのはきっとそれぐらいなはずだから。
呪いそのもののはずなのに
朝目覚めてみれば、ミンギュがいなかった。
ちょっとだけ胸がドキドキしたけれど、ウォヌの手の中にはミンギュのスマホがあった。
寝てる間にちょっと大きな地震があったらしく、棚の上のものが落ちたりもしたらしい。
ミンギュが戻るまでの暇潰しに落ちたカゴやらを拾ったりして手伝っていたら、一度払ったはずの料金を返してくれた。
でもウォヌがいるから、こんなことが起きたのかもしれないのに。
それほど待たずともミンギュは戻って来て、なんでか払い戻されたお金を渡したら、「朝からラッキーじゃん」と笑ってたけど、飛行機も船も何もかも、安全確認の必要があって動かないらしい。
でももっと朝からラッキーだったのは、ミンギュが「ほら」と差し出してくれたのが、食べたかったのに食べられなかったスコーンだったから。
プレーンと、季節の果物のスコーンは木苺だった。
歩きながらスコーンを食べる。ちゃんと半分ずつ。
願いが叶ったことを、なんだか不思議に思いながら、やっぱり黙って歩くミンギュと一緒に歩くだけ。
いつか誰かに、呪いを押し付ける日が来たら、どうしようか。
そんな、今まで考えたこともないようなことさえ考えた。
でも今まで抗ったことなんてなかった。子どもの頃からだったから、それが当たり前だと思ってしまったのかもしれない。
誰かと一緒にいたいなんて、思ったことだってなかったっていうのに.........。
ウォヌは立ち止まった。ミンギュは気にせず歩いて行く。その背中を見ながら、少しずつ離れていく距離に、どこまで耐えられるかを試してみる。
我慢できないなら、追いかけなきゃいけないから。待ってと、声をかけなきゃいけないから。
でもついてこないなら、そこで終わりと思われてるかもしれない。
声は出ないし、足もでない。そんなこと、当然ながら言ったこともやったこともないから。
どうしたって呪いそのものとして生きてきたから。
「ウォヌヒョン、なに? 疲れた?」
それなのにミンギュは当然のように振り返って、戻ってくる。
それから「ほら」って言いながら、手を伸ばしてくれる。
手を繋いで歩いたからって疲れが原因ならどうしようもないはずなのに。
次に向かう場所
「船を見つけよう」と言えば、「ここを出るんだ」とウォヌは言ったけど、賛成も反対もしなかった。
でもウォヌはさっき、立ち止まった。
だから何か思うところはあるんだろう。
「一緒に来て欲しいところがあるんだけど」
普通なら「どこに?」とか、「なんで?」とかあるはずなのに、ウォヌはただ頷いて、一緒に歩き出す。
それもまたウォヌらしいから、ミンギュは笑った。
いつか何かを尋ねてくれたら嬉しいし、時々は拒否してくれたら嬉しいし。
船はすぐに見つかった。
客は少ないし、なんだか嫌に早く出るなと思っていたら、気づけば海洋警察の船に追われていたけれど、物凄い早く海を渡れただけだったし、一緒に捕まることも人質になることもなかった。
払い戻しもなかったけれど、特に問題はない。
ウォヌも慣れたもんで、周りがドタバタしてても平気な顔でスマホゲームを続けていたから。
どこに向かっているのか......とも問わずにウォヌはついてくる。
どこに向かってる......とも言わずにミンギュは歩く。
時に降ってわいたような出来事に襲われる。
消防署が火事になってたり、道路に穴が空きだしたり、突風というにはキツすぎる風のせいで車が横倒しになってたり。
2人がのほほんと移動していく側では、やっぱり色んなことが起きていたけれど、もはや2人ともあまり気にもしなくなっていた。
それだって慣れてしまえば日常ってことかもしれない。
「妹に会いに行く」
ようやくミンギュがそう言ったのは、全寮制の女子高の前に立ってはじめて「ここ何?」とウォヌが言ったから。
絶対に手に入らない愛
妹がいたことは初耳で、ミンギュは嬉しそうに「唯一の家族なんだ」と笑う。
誰かに勝てたことなんてない人生だったから、そんなものに手を伸ばそうとなんて思ってもいないけど、でも唯一の家族でそれが妹だっていうなら、そんなのもう勝てるはずもない。
ウォヌにはもう絶対手の入らないものすぎて、でもそんなこと、言えた人生でもなくて、笑ってしまったほど。
あぁはじめて、ちゃんとした唯一を聞いたかもしれない。
そう思ったらまた笑えてきた。
ミンギュが家族のはなしを道々、聞かせてくれた。
話は半分以上入ってこなかったけど、「長期の休みとかに入ると「会いに来てよオッパ」って、オッパ攻撃をしかけてくるんだよ」と嬉しそうに笑うその姿は、妹が愛おしいんだろうなってのが、あちこちから滲んでた。
一家離散する前に生まれた妹は、子どもがいなかった父親の知り合いの家に養子にいったのに、そうしたらその家に子どもが生まれたっていう典型的な話だった。
でも意地悪されてるとかもないし、同じように育ててくれてるし、生まれた子は男の子だったから比べられることもなくて。幸せに育ってるはずなのに、会いたいと言われるとどうしても会いに行ってしまうんだとミンギュが語る。
何度も訪れてる場所なのか、正門横の警備の人に挨拶をして、ミンギュが誰かの呼び出しを頼んでた。それがミンギュの妹の名前だと判っても、それはウォヌの身体に残ることもなくてただ通り過ぎていく。
授業中だからと、待たされること1時間弱。
「こないだ会いに来たばかりなのに、どうしたのオッパ」
制服姿の妹は、ミンギュに似てたかもしれない。多分笑ったら、もっと似てるはず。
ミンギュの後ろにいるウォヌのことを見て、「誰? なに? 借金取りには見えないけど?」と酷いことを言いながらも楽しそうに笑うその姿は、なんでも楽しんでしまうミンギュにやっぱりよく似てた。
「ウォヌヒョン、俺、今この人と一緒にいるから。それから色々事情があって移動に時間がかかるから、会いたい時にはこれからは3週間は前に連絡してくれよ」
その言葉に、ウォヌは驚いた。でもミンギュの向こう側では、妹も驚いていた。
次があったとしても、ミンギュはウォヌに「ちょっと待ってて」とは言わないんだって、もう待たされることはないんだって、絶対に手に入らないもののはずの何かが、もしかしたら自分の手の中にもうあるのかもしれないって、バカみたいに自分の手を見たほど。
その手を弾かれることの方が多くて、もう誰かにその手を伸ばす人生なんて、考えてもいなかったのに。
でも手に入りそうになれば、それを失う怖さに慄きそうになる。
もしも呪いのせいで、妹に不幸が訪れたとしたら、ミンギュだってウォヌに冷たい視線を向けてくるはず。
きっと「お前のせいで」「お前がいたから」「お前なんか」「お前が死ねば良かったのに」「お前が」「お前が」「お前が」「お前が」「お前が」って、これまでたくさんウォヌにそう言った人たちがいて、同じようにミンギュだって、そう言うはず。
呪いを手にいれた日
ミンギュの前では妹が、後ろではウォヌが驚いていた。
でもさすがミンギュの妹は、驚きよりも楽しいの方が強くなったみたいで、「凄い! 男前な彼氏じゃん」と喜んでいて、会いに来るのが遅くなるなら2人の写真を送ってくれればいいとか、なんの関係があるんだって感じのことを言い始めた。
今まで、ミンギュの一番は妹だった。それを妹も知っていた。いやこれからだって一番は自分だと思ってるはず。でも並び立つ人間ができたことも知ったはず。
「変な女に捕まるぐらいなら、全然いいと思う」
生意気な妹は、そう言って笑ってた。それから「授業があるから」と戻っていく。
ちゃんとその後ろ姿に、「本気で困った時には、絶対連絡しろよッ」と叫べば、妹は嬉しそうに笑って、手を振り振り、校舎の中へと消えてった。
ミンギュがそんな妹を見送ってた後ろで、驚いて固まって、そのまま打ちひしがれてるウォヌがいて、でも走って逃げるなんてことは想像もしてないのか、その場に立ち尽くしてた。
「ウォヌヒョン、お待たせ」
物凄い爽やかにミンギュがそう言ったのに、「お前の、唯一なんだろ」って言ったウォヌは泣きそうに見えた。
「俺が、呪ったらどうするんだよ」
「きっと笑うと思う。俺の妹だもん。絶対笑うに決まってる」
驚きもするだろうし、時々は打ちのめされたりもするだろうけど、きっと笑う。それから立ち上がって歩き出す。
そう言っても、ウォヌは首を振るばかりだった。
「ウォヌヒョンは、とりあえず色々考えとけばいいよ」
ミンギュはそう言って、ウォヌの手を取った。
ウォヌが嫌がってその手を振りほどこうとしたって、ミンギュは離さなかった。
「いつか後悔する」
「うん。そうかもね」
「いつか、お前だって俺をいらないって言う。俺なんか、俺だっていらないのに」
「じゃぁ俺が貰おうかな」
「呪いなんて、自分から手にしてどうすんだよバカ」
「バカぐらいが丁度いいよ。呪われたって、笑いながら生きられるよ」
まだ女子高の敷地内だというのに、言い合いながら、男2人が手を繋いで歩いていく。
それはシュールな絵面だっただろうに、なんでか妹の学校ではかなり喜ばれたらしく、妹からは「兄貴グッジョブ」ってカトクが来てた。
それからも大分長い間言いあっていたけれど、「とりあえず飯を食おう」って言えば、ウォヌも頷いた。
The END
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