注意......
多分。続きモノです。
はじめて「天使が空に」を読まれる方は、contentsよりお進みくださいませ~
天使が空に the8 side story
せっかく覚えた言葉の数々を、全部失ってしまったかもしれない。
誰の声も、音としては聞こえていたけれど、何を言っているのかが判らなかったから。大分長い間、ディエイトは話さなかった。でも誰もその事実に気づかなかった。なんで誰も気づいてくれないんだ......なんて気持ちは全くなかったのに、エスクプスもジョシュアも、ウォヌもホシも、ミンギュもドギョムも、ディノまでもが謝ってくれた。
その日は、ディエイトにとっては覚悟を決めた日。
なんの覚悟かはよく判らない。でも確かに覚悟を決めた日だった。
控え室として用意された部屋に、鏡は一つしかなかった。入り口近くにあった鏡の前で、ディノが踊ってた。時々ディノにあわせて踊りながら、今日のコーディネートのチェックをしてみたり。後で誰かにカメラで写真を撮ってもらおうと考えながら開いたままのドアの向こうに見える、中庭を見てた。
最初にその男の人に気づいたのは、ディエイトだったかもしれない。
「このおじさんお酒臭いよ」
一番近くにいたから気づいたことを、感じたままを口にした。ディエイトの次に近くにいたディノが「ん? なんですか? どちら様ですか?」と近づいて行った。
そこからは一瞬だったかもしれない。
ジョンハンが殴り倒されて、ウジが撥ね退けられて。
『ハオッ! 下がれッ!』
咄嗟に動けたのは、それが中国語だったからか。それともジュンの声だったからか。
ディノの腕を掴んだまま後ろに下がれば、目の前をパイプイスが飛んだ。そしてさっきまでディノと一緒に見てた鏡が粉々に割れて飛び散った。ディノのことを庇って左腕のどこかを切ったのか、一瞬痛みを感じたけれど、すぐに気にならなくなった。
目の前でジュンが見知らぬ人と闘っていたからかもしれない。
無意識だけど、ディノを守るように立っていた。守らきゃなんて、思ってもいなかったかもしれない。意識したのは、ジュンの手からペットボトルを受け取った時。
『ハオ。行けるか? もしもの時は 』
その言葉とともに、受け取ったペットボトル。
エスクプスとジョシュアは血を流して倒れてるジョンハンの側にいて、ミンギュはウジを抱えたまま床から起きあがれそうになくて、ジュンとウォヌは倒されても暴れようとしてるおじさんを押さえてて、ホシがドギョムを抱き着くようにして引きとめていた。そしてその前にはバーノンが。部屋の奥にはピクリともしなかったスングァンがいて、自分の後ろにはディノがいる。
そのペットボトルを受け取るのが、自分に渡されたのは必然なのか、偶然なのか。それとも、自分だから託されたのか。
『ハオ。行けるか? もしもの時は倒せ』
もしもそのペットボトルを渡す相手が誰か別のメンバーだったなら、ジュンは絶対そんなこと、言わなかっただろう。それだけは判った。
普段は弟みたいなヒョンで、楽しそうに笑ってて、ふざけてばかりで、騒がしくて賑やかで楽しそうで。カッコいいの塊なのに。でもジュンはバカじゃないし、鏡を割った時のように2人だけにしか判らない言葉を使う必要もないのに、それでも今回も国の言葉だったのは、その言葉は自分にだけ伝えたかったからだろう。
託せるのが自分だけなんだと思ったって、別にいいじゃないか。それぐらいは。
その時は自分でも理由も判らないまま、ちょっとだけ悲しくなって、でも託されるに値する人間で良かったとも思ったり。同じ国で、同じ言葉を理解するのが自分で良かったと喜んでもいた。
一瞬で色んな気持ちがグルグルして、でも渡されたペットボトルを強く握りしめてその部屋を出る時には覚悟を決めていた。
もしもの時は。そうジュンが言ったから。
その部屋が突き当たりにあったなら、話は簡単だっただろう。でも残念ながら廊下は左右に広がっていて、どちらにも人の姿は見えなくて。どうしたって闘える人間は自分以外にはいなかったから、ディエイトの足は部屋を出たところで止まってしまった。
もしも自分一人だったなら、攻めて出ていたかもしれない。だけど守るべき人たちがいたから、ディエイトは動かなかった。守ることを優先したから。
何から守るかは、ディエイトだって判らない。でも誰一人として、仲間たちを傷つけさせはしない。それだけは判ってた。
「ディノやッ。廊下にある非常ベルを押してこい」
キムミンギュの冷静な声が聞こえてきて、見れば斜め前の壁には消火栓と非常ベルが確かにあって、ただただ目に見えぬ敵にばかり囚われていた自分に、ちょっとだけ驚く。でも非日常だから、しょうがない。
部屋から出てきたディノが非常ベルを押すのを、ディエイトは見てた。もしも見知らぬ誰かが来た時に、ディノだけは守らなきゃいけないから。それだけは絶対だから。
鳴り響く音は非日常なのに、今だけはその音の大きさにホッとした。
でも遠くから駆けてくる足音に、緊張もしていた。だって誰がくるのか、それが敵か味方かは判らないから。警備員の姿をしていたとしても、敵じゃないとは言い切れないから。
警備員なら警棒とか、武器を持っているはずで。どれぐらいの力で対処したら、確実に仲間たちを守れるのか、真剣にディエイトは考えていた。でも闘うことにならなかったのは、警備員と一緒に必死な顔で駆けてきたのが、いつも一緒にいてくれるマネヒョンだったからだろう。
「どうしたッ? 何があった?」
マネヒョンの問いかけに、答えた記憶がない。でもきっと何も答えなかったはず。
ただ、部屋の入口を背に立っていた場所を、譲っただけ。
部屋の中を見たマネヒョンや警備員の人たちは、その情報量の多さに事態を把握することができなかったかもしれない。でも冷静なキムミンギュが「ヒョンッ。救急車ッ。早くッ」と口にして、全てが動き出した。
見知ったスタッフたちも来て、誰かがジョンハンの流す血に気づいたのか悲鳴をあげていた。
入口の横で、駆けつけてくる人間を全部見てた。敵が混ざってるかもしれないから、身体からはどうしたって力が抜けなくて、ただただ見てた。誰かが通り過ぎて部屋に入っていくたびに、ペットボトルを握りしめてるその手にギュッギュッって力が込められるのが、自分でも判った。
救急車が来て、ジョンハンが一番に運ばれていった。まだ意識を失ったままのウジと、背中や腰や、胸や腹を打ち付けたミンギュも運ばれていった。エスクプスやジョシュアもついていった。
誰かに「ケガはない?」と聞かれた気がする。それに首を振っただけ。
左腕のどこかをガラスで切っていたけれど、痛みはもう感じていなかったから。
「ハオ。行って」
次に気づいた時には、目の前にジュンがいた。
言葉は国の言葉じゃなかった。
自分の手にはまだペットボトルがあって、それを差し出そうとしたらそっと首を振られた。たったそれだけの仕草で、言葉なんてなくても、まだそれは自分の手の中に持っておく必要があるんだと理解した。
だからずっと緊張したままだった。
事務所の人が病院に向かう車に乗せてもらったけれど、それはいつもの移動車じゃなかったし、事務所の人だってそれほど親しい人じゃなかった。だからずっと、車の中ではペットボトルを持ってない方の手で、シートベルトを強く握ってた。それが自分の動きの制約にならないようにって。いつだって素早く動けるようにって。
そこが大きな病院だったのか、普通の病院だったのか、まったく判らない。
案内されるままに歩いていたホシやドギョムやディノとは違って、ディエイトは正しくその場所を覚えたし、非常階段の場所や非常ベルの場所や、消火器やAEDの場所すら覚えた。看護師さんたちの詰め所の場所から一番遠い部屋に案内されたのは、気づかいだったのか、それ以外の意味があるのかは判らない。
四人部屋のその部屋の中にいたのはホシとドギョムとディノとディエイトの四人だけだったけれど、それでもディエイトはペットボトルを手放さなかった。
何と戦うつもりなのかは、正直自分でも判っていなかった。だけど今一緒にいる三人を守らなきゃいけないことだけは判っていて、誰も傷ついて欲しくないとも思っていて。
「ヒョンッ! 血が、血が出てるよ!」
一人病室の入口から離れなかった。誰かが来るなら、そこからだから。
やって来るのが見知らぬ誰かなら、白衣を着た人だろうと誰だろうと、ここは通しはしないと思っていたから。
誰が血を流してるのかと、ディノの声を聞いて正直驚いた。全然驚いた風には見えなかったかもしれないけれど、すぐにディノが駆け寄ってきたから、血を流してるのは自分なのかと他人事のように思っただけだった。血を流しているのが自分なら問題ない。そんなことを思っていたことが知れたら、きっと誰かは変わりに怒ってくれるかもしれない。それとも、哀しんでくれるかも。ふとその誰かを思い浮かべようとして、それは一瞬で消えた。
目の前で病室のドアが、横に静かにスライドして開きはじめたから。
ディエイトは自分でも意識せず、ディノを庇うようにして身体を動かした。右手に持ってたペットボトルを背中に隠しながら、左手でスライドドアの持ち手を掴んで、開きかけたそれを止めた。
もしもそこにいるのが見知らぬ誰かなら、そしてそれが危害を加える人間だったなら、一番にディノを病室の奥へと押しやらなきゃいけなくて、何があったってドギョムだけはケガ一つ負わせちゃいけなくて、だからあの時のジュンのようにペットボトルで誰かを殴る覚悟があるのかを自分に問いただして、守りたい人たちがいるからこそ、覚悟を決めた瞬間だった。身体と心の温度がスーッと一瞬で下がったような気もした。静かに息だって吸い込んだ。ペットボトルを握ったその指に手に、力も入ったかもしれない。
「あれ? 開かない?」
だからドアの外から聞こえてきたのがジョシュアの声だったことに、多分一番ホッとしたのはディエイトだっただろう。全然、そんな風には見えなかったかもしれないけれど。
ジョシュアが部屋の中央に進めば、ディノもそれについていった。だからそれにホッとしたけれど、ディエイトはやっぱりドアから離れられなかった。それでもジョシュアがいれば、自分が誰かを倒せなかった時も、どうにかなるような気がした。
きっと普段なら、絶対ジョシュアはディエイトがいつもと違うことに、瞬時に気づいていただろう。ただ今は、それ以上に大変なことがあっただけのこと。
「ウジが目覚めない」
ジョシュアの口からその言葉を聞いた時、ヒョンなのに一番小さくて、大抵のことには頷いてくれるウジのことを思い出して、身体が震えたかもしれない。まだ気を抜く訳にはいかないのに。まだ、何かがあったら戦わなきゃいけないのに。
それでも救いだったのは、それほどの時間をかけずに、ウォヌとジュンと、スングァンとバーノンがやって来たから。
一緒にいれば、それだけ安心できる。
たぶんムンジュンフィの姿を見て、油断したんだろう。
だってジョシュアは気づけたのに、ディエイトは気づけなかったから。
スングァンが、いつもと違うってことに............。
警察の人が一緒だった。ジュンの後ろに続いて部屋に入って来た。本当なら、自分がそれを止めるべきだった。いくらムンジュンフィが「警察の人だから」と言ったって、部屋には入れなきゃ良かったのに。何を油断したんだろう。なんで終わったと思ったんだろう。
スングァンが「ヒョンッ! 危ないッ! 逃げてッ!」と叫んだ時、一番に動いたのはジョシュアで、ジュンで、ウォヌで。
ディエイトはただ、ペットボトルを強く強く、握りしめただけで、動けなかった。
気づけば部屋の中は、自分たちしかいなかった。
看護師さんも、事務所のスタッフたちも、入ろうとすればスングァンが怖がって、時々は叫んだから。
ただの控室的な役割の病室だったはずなのに、急ぎ処方された薬を飲んで、スングァンが寝てた。横にはバーノンがピタリと寄り添っている。
病室の外にいる警察の人とのやり取りは、ジョシュアとウォヌがしていた。
本当は全員から話を聞きたいという話だったけれど、スングァンの状況を見て、諦めたのかもしれない。ほかのメンバーだけでも......って話もあったけど、「ひ、一人で行かなきゃいけないの? 俺一人で、警察の人と話すの?」とディノも不安を口にして、ジョシュアが「今は無理です」と断ってくれた。
まぁその時にはディエイト自身が言葉を忘れたかのごとく、何も発しなくなっていたから......っていうのも、あったかもしれないけれど............。
「ハオ。ハオ?」
目の前にムンジュンフィがいた。いつも通りの整った顔は、傷一つついてなくてホッとした。思わずディエイトの名を呼ぶジュンと、見つめ合ってしまった。
ただディエイトとすれば次の指示を待っていただけだというのに、ムンジュンフィが、「もういい。もう終わったから」と抱きしめてきた。
「ごめんな。ごめん」
そうも謝ってくれたけど、意味が判らなかった。
でも、強く握りしめすぎて自分では手放せなくなっていたペットボトルを、指一つ一つを開いて取り上げてくれてはじめて、終わったんだ......と力が抜けたのを覚えてる。
言葉が出なかった。いつもなら理解できる韓国語のほとんどがよく判らなくて、せっかく覚えた言葉を全て失ってしまったかのよう。
後で思い返せば、ただただ疲れていたんだろう。誰とも戦いはしなかったけれど、その緊張感に疲弊しすぎて、ものを考えたりする頭まで、栄養がまわっていなかったんだろう。
気づけば、足にも力が入らなかった。
だからスングァンの次にベッドの住人になったのはディエイトだった。
誰の言葉も聞こえなくて、誰にも何も言う気力もなくて、ただムンジュンフィが傍にいてくれただけ。
気づけばハニヒョンが帰ってきていて、気づけばドギョムが号泣してて、気づけばウジも帰ってきていて、でも最後までスングァンだけがあの時の出来事を繰り返してるのか、叫び続けてて。
でもディエイトも同じだったかもしれない。スングァンが叫ぶたびに、咄嗟にペットボトルを探してしまう自分の手を止めることができなかったから。その度にジュンが、その手を握ってくれたけど。
一番最初に謝ってくれたのはムンジュンフィだった。そしてそれを見て、ようやくディエイトもまたいつもと違うと気づいたのか、それぞれがそれぞれ、後からディエイトに謝ってくれた。
いつもなら「何で謝るんだよ」って言えたはずなのに、ヒョンたちの言葉には首を振っただけ。チングたちの言葉には頷いただけ。それからマンネなディノの言葉には、ちょっとだけ泣いたかもしれない。
だってディノは、中国語で話しかけてくれたから。
退院するという日。雨だった。
ウジとスングァン以外が呼ばれて、簡単に事情を聞いた。納得できないとディノが言ったけど、95ラインは何も言わなかった。多分とっくにそんな事情は知っていたんだろう。ディエイトはジュンが何も言わない姿を見て、自分も何も言わなかった。
忘れたと思った韓国語の色々は、少しずつ思い出して、宿舎に戻る頃にはいつも通りに話せたかもしれない。
ジョンハンも、ウジもスングァンもいつも通りだったから、ディエイトもいつも通りに暮らすことにした。
でも覚悟を決めたことだけは、ディエイトの中に残ったけれど。
身体と心の温度がスーッと一瞬で下がったあの感覚は、ディエイトには忘れられそうになかった..................。
The END
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